記事のアーカイブ
共 鳴
2017年12月03日 10:00
今号は、福島県在住の作家・僧侶の玄侑宗久とおっしゃる方の文章(購読の新聞に載っていた)を紹介する。その文章の題は「無熱の慈しみ」。これは『維摩経』(ゆいまきょう)という経典に説かれており、意味は「反転して憎しみに転じることのない菩薩の慈悲心」のことであるとのことである。わたくしはこの「無熱の慈しみ」と題する文章におおいに共鳴した。それを書いてみる。北朝鮮のミサイル発射の知らせと同時に児童全員に防空頭巾をかぶらせ逃げる訓練をさせている小学校があるのだが、そこの先生によれば、児童の半数ちかくが「北朝鮮なんてやっつけちゃえ」的な言葉を口にするようになったという。そこで、玄侑宗久僧侶はこう書いておられ
創世記4章の物語
2017年11月05日 10:00
今号は創世記4章の物語を引いてみることにします。動機はその後にしるすことにいたします。創世記4章の初めには兄のカインが弟のアベルを殺すことがしるされ、後段のところにはカインの末裔のレメクが「わたしは傷の報いに男を殺し打ち傷の報いに若者を殺す」、つまり加害者には報復としてその者を殺すと詠ったということがしるされています。ここには〈報復戦争〉の肯定が述べられていると言ってよいかとおもいます。ここで創世記4章の中段にしるされていることに留意する必要があります。そこには殺人者カインに対する報復を禁じる神の言葉がしるされ、こうあります。「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしる
「時間の創造」
2017年10月08日 15:18
1章3「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」 原初史物語の作者は、神の「地」の創造の働きは「光」の創造から始まったとしている。物語作者はここで何を語ろうとしているのか、考えてみたい。それを考えるために、この後に続けてしるされているところをみてみる。1章4~5「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」 ここには、神は光の創造の後、光と闇の間を分けたとある。そして、神は光を昼と呼び、闇を夜と呼んだとある。そうすると、光の創造は「昼」ができることであり、「夜」ができることであるということ
今年の平和賞
2017年10月01日 10:00
今号は次のことを記さなければならない。今年のノーベル平和賞は「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」に贈られる。拠点をスイスのジュネーブに置いて世界の各地で核兵器廃絶の活動を展開。平和・軍縮・人権に取り組む470ほどの団体(100カ国に及ぶ)が参加。国連は7月に核兵器禁止条約を制定することを122カ国の賛成を得て採択したが、ICANはこのことに貢献したことが評価された。報道によるとICANのフィン事務局長は記者会見で「広島・長崎の被爆者は核兵器禁止条約制定の重要なプレーヤーだ。被爆者は1945年以降、原爆による悲惨な体験を語り続け世界に知らせてくれたことが核廃絶運動にとって非常に役だっている
小座野八光講演会のご案内
2017年09月12日 15:52
わたしたち中野桃園教会の会員である小座野八光氏は、インドネシア、アジアについての研究者です。この講演会の方向としては、日本の教会の過去の歴史を踏まえ、日本のキリスト教会とインドネシアのキリスト教会との関りを知り、今日の私たちの課題を提示していただくことにありますが、今回はインドネシアのキリスト教について重点を置いて講演していただくことにいたしました。皆様のご参加をお待ちしております。この講演会にはどなたでもご参加いただけますので、お知り合いやご友人に興味のある方がいらっしゃいましたらぜひお誘いください。(参加費は不要です)*日 時 2017年 10月8日(日) 14:00~16:00*場 所
「混沌」
2017年09月11日 09:57
創世記の原初史物語の冒頭には「神は天と地を創造した」とある。前回は「天」に焦点を合わせてみたが、今回は「地」に焦点を合わせ読み進めることに。1章2には「地」について言及されている。1章2「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」ここには「地」の状況が描かれている。それは「地は混沌であって」という状況である。「混沌」は無秩序の極に至った全壊滅の状況を言い表す。では、具体的にはいかなる状況であったか。わたくしはそれを解する手掛かりを〈エレミヤ書4章23〉に求める。そこには地の状況が描かれ、そこも「地は混沌とし」と言い表されている。「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし、空
水
2017年09月10日 16:48
今年の8月はひどく暑かった。水をたくさん飲んだ。安心して水をこんなにたくさん飲むことができることに感謝した。
「水」は聖書において主題。早くも聖書の初めの創世記1章1節に登場。そこにこうしるされている、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」
ここの水は「地は混沌であって」の原因として登場。「混沌」とは全壊滅の様をさす。ここの水は地の全壊滅の原因として登場している。
さらにこうしるされている、「神の霊が水の面を動いていた。」この「動いていた」は「制御していた」の意味に解せられる。ここにしるされていることは、神の霊が地の全壊滅の原因となる水を制御し
ルター先生の教え
2017年09月03日 10:00
キリスト教は何を語る宗教であるかと問われたら〈神の恵みによってのみ人は義とされる〉とわたくしは答える。では神の恵みによる義とはどういうことであるかと問われたら〈律法によって人は義とされる〉を否定することとわたくしは答える。これは500年前の大先生ルターから教わった。ルター先生によると、この〈否定〉というところが重要で、この〈否定〉を語らないで〈神の恵みによる義〉を語るのは意味がない。律法は〈社会通念〉の中に入り込んでいる。たとえば、〈世話をされないと生きてゆけない人は世の中にいられない〉、律法は今日この社会通念の中にある。もしルター先生が今日再登場したら、〈神の恵みによる義〉を語ることはこの社
創世記 1章1 「初めに、神は天地を創造された。」
2017年08月17日 15:15
原初史物語の冒頭で、まず留意したいところは、物語作者が神の創造したものに「天」があるとしているところ。この「天」は、この後しるされているが、「蒼穹・おおぞら」のことを指している。この「天」(蒼穹・おおぞら)であるが、原初史物語の時代の人々にとっては「分からない所」であったという。そうすると、原初史物語の作者が「神は天を創造した」と語ったとき、「神は人間には分からない所を創造した」と語ったことになる。ここではじめに述べなければならないことがある。わたくしはこの「天」というところに関心を持っていなかった。が、ある文章を読んで、それではいけないとおもうに至った。まずはそのあたりのところから述べること
マルコ福音書から(38)16章1~8 《ガリラヤに行く》
2017年08月10日 10:54
マルコ福音書の読みは最終章に来た。何が言われているであろうか。三人の女たちが安息日の明けた早朝、取り急ぎ埋葬されたイエスに本格的な埋葬をするべく墓に行く。不思議なことに墓の扉の大きな石は取り除けられていた。三人の女たちが墓に入ると、そこに白い衣をまとった者がいた。その者は彼女たちに言った、「ナザレのイエスに会いたいのであればガリラヤに行くとよい。そこで会うことができる。」ここでわたくしの推量を言うことになるが、三人の女たちはナザレのイエスに会うためにガリラヤに行った。ここで考えたい、「ガリラヤに行く」とはどういうことを意味しているかについて。墓の中の白衣をまとった者は三人の女たちに「ガリラ
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