記事のアーカイブ
「平和への誓い」
2017年08月06日 10:00
8月6日72年目の「原爆の日」を迎えた。広島の平和記念公園で「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」が行われた。その式において広島の小学6年生の二人、竹舛直柔さんと福永希実さんによって、「平和への誓い」が朗読された。それをここで紹介する。「原子爆弾が投下される前の広島には、美しい自然がありました。」そこには「一緒に創るはずだった未来がありました。」(しかし)「1945年8月6日午前8時15分、広島の街は焼け野原となりました。広島の街を失ったのです。多くの命、多くの夢を失ったのです。当時小学生だった語り部の方は『亡くなった母と姉を見ても涙が出なかった』と語ります。感情までも奪われた人がいたのです。 しか
わたしのシェルター
2017年07月02日 10:00
この国の今の政府は秘密保護、安保、共謀罪の法案を次から次へと出し、多数与党はこれを可決。これらは国民の間で賛否がおおきく分かれているもの。当然のことながら国民の間に対立が深まった。が、この対立は今の政府に都合がよいようだ。今の政府は対立を生じさせ、それによって生じた一定の固定した勢力を政権維持の基盤にする、という手法を取る。この手法はこのあたりでやめさせなければならない。というのは、この手法はやがて「テロ」を生むことになるからである。わたくしはこのたび大江健三郎の『定義集』(文庫版)を繰り返し読んだ。解説を作家の落合恵子が書いている。その題は〈「意志的な楽観主義」をタイトルに借りて〉。「意志的
中野桃園教会 創立90年記念礼拝へのお誘い
2017年06月11日 17:03
日本基督教団 中野桃園教会は7月初めに創立90年を迎えます。7月2日(日)10:30から記念礼拝をおこないます。メッセージは「ノアの箱舟」です。また、礼拝後に愛餐会を予定しております。皆様のご出席をお待ちしています。
人権の感覚
2017年06月04日 10:00
岩波新書に日高六郎『戦後思想を考える』がある。この書の冒頭に三木清の獄死のことが書かれている。著者いわく、「日本は、戦後、おそらくもっとも重要な思想的な仕事をしたであろうひとりの思想家を失った。」三木は治安維持法によって獄中の人となり獄死した。三木が獄死したのは1945年8月15日(敗戦)以前ではなく、それから一カ月以上たった9月26日であった。日本政府は敗戦後も三木を釈放せず獄死させた。三木清の獄死を聞いたロイター通信の記者がおどろいて日本政府の山崎内相に面会を求める。このとき内相はこう答えた〈思想取り締まりの秘密警察は現在なお活動を続けており、治安維持法によって違反者は逮捕する。〉日本政府
マルコ福音書から(37)15章21~32 《自助の思想を棄てよ》
2017年05月27日 14:06
物語はイエスの最期の姿を描く。
そこには十字架につけられたイエスに対する人々の嘲笑と罵倒の言葉が記されている。
「『十字架から降りて自分を救ってみろ。』同じように、祭司長たちも律法学者
たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。『他人は救った
のに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りる
がいい。それを見たら、信じてやろう。』」
ここには、他人を救ったのに自分は救えない、自分を救えず自分を救わない、そういうイエスが描かれている。
ここに登場する人々は多種多様の人々であり、立場の全く異な
危ない!
2017年05月14日 10:00
政府は「テロ準備罪」を取り締まる法を制定しようとしている。関心をもって購読の新聞を読んでいるのだが、全く解せない。
かつてこの国には「治安維持法」なるものがあった。これも「テロ準備罪」を取り締まる法であった。この法が制定されたその時点ではこの法が適用されることなく問題が感ぜられなかったのだが、数年後時局が変わる中でこの法が適用され、無実の者が拷問の末死に至らしめられた。中野の隣の杉並の住民であった文学者小林多喜二はまさにそれであった。
政府が制定しようとしている「テロ準備罪」を取り締まる法は制定された時点でただちに適用されることはなく問題が感ぜられないであろうが、時局が変わる中であの小林多喜
マルコ福音書から(36)15章6~15 《無権力者》
2017年04月27日 15:46
イエスは十字架にて処刑された。
このことについて、改めて考えてみたい。
ローマ帝国が実施していた十字架刑は、国家に反する政治犯に対する刑罰であった。イエスが十字架刑に処せられたということは、国家反逆罪を犯した政治犯とみなされたということであった。
ローマ帝国のユダヤ総督ピラトは、イエスの言動がローマ帝国に対する国家反逆罪に当るかについては疑問を持っていたようである、彼の判断ではイエスが抵触しているのはユダヤの律法であって、したがって、その限りで処すべきことであったとしていたようである。歴史の実際はそうでなかったかもしれないが、
正義を疑え
2017年04月02日 10:00
このたび贈呈いただいた『生きたかった 相模原障害者殺傷事件が問いかけるもの』(大月書店刊)を読ませていただきました。この問題について無知も同然のわたくしに深い示唆と教示が与えられました。わたくしは聖書を読んでいる教会にはこの問題について言葉を発してゆく責任があるとおもっておりますので今号もそうしてみることにいたします。
聖書の教えによって言うと、人の命は別なもので取り替えることができません。人は固有の存在であるからです。これに対し事故で壊れた自動車の場合これは取り換えができます。それが「物」であるからです。人の命は人が固有の存在であるゆえその命は別なもので取り替えることはできません
4/16(日)復活節礼拝へのお誘い
2017年04月01日 18:12
<復活節礼拝のご案内>日時:4月16日(日) 礼拝―10:30~11:30 愛餐会―12:00~13:00メッセージ「だれを捜しているのか」 ぜひご参加ください。
1517年
2017年03月05日 10:00
わたしたちの教会はプロテスタント教会に属しています。プロテスタントとは抗議をする者といった意味ですが、これはルターがローマ・カトリック教会の一員として問題の提起をしたことからきています。
ルターが言ったことを端的に言うとこうなるかとおもいます。人の義とされるのは神の恵みによってのみである。これに対しローマ・カトリック教会が主張したことはこうなるかとおもいます。人の義とされるのは神の恵みによることはもちろんだが、神は恵みによって義とされた者が愛の行為をする者になることを期待している、そうなることによって神の恵みは完成する、ルターのように《のみ》と言ってしまうと、人間の応答としての愛の行為はどうで
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