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危ない!
2017年05月14日 10:00
政府は「テロ準備罪」を取り締まる法を制定しようとしている。関心をもって購読の新聞を読んでいるのだが、全く解せない。
かつてこの国には「治安維持法」なるものがあった。これも「テロ準備罪」を取り締まる法であった。この法が制定されたその時点ではこの法が適用されることなく問題が感ぜられなかったのだが、数年後時局が変わる中でこの法が適用され、無実の者が拷問の末死に至らしめられた。中野の隣の杉並の住民であった文学者小林多喜二はまさにそれであった。
政府が制定しようとしている「テロ準備罪」を取り締まる法は制定された時点でただちに適用されることはなく問題が感ぜられないであろうが、時局が変わる中であの小林多喜
マルコ福音書から(36)15章6~15 《無権力者》
2017年04月27日 15:46
イエスは十字架にて処刑された。
このことについて、改めて考えてみたい。
ローマ帝国が実施していた十字架刑は、国家に反する政治犯に対する刑罰であった。イエスが十字架刑に処せられたということは、国家反逆罪を犯した政治犯とみなされたということであった。
ローマ帝国のユダヤ総督ピラトは、イエスの言動がローマ帝国に対する国家反逆罪に当るかについては疑問を持っていたようである、彼の判断ではイエスが抵触しているのはユダヤの律法であって、したがって、その限りで処すべきことであったとしていたようである。歴史の実際はそうでなかったかもしれないが、
正義を疑え
2017年04月02日 10:00
このたび贈呈いただいた『生きたかった 相模原障害者殺傷事件が問いかけるもの』(大月書店刊)を読ませていただきました。この問題について無知も同然のわたくしに深い示唆と教示が与えられました。わたくしは聖書を読んでいる教会にはこの問題について言葉を発してゆく責任があるとおもっておりますので今号もそうしてみることにいたします。
聖書の教えによって言うと、人の命は別なもので取り替えることができません。人は固有の存在であるからです。これに対し事故で壊れた自動車の場合これは取り換えができます。それが「物」であるからです。人の命は人が固有の存在であるゆえその命は別なもので取り替えることはできません
4/16(日)復活節礼拝へのお誘い
2017年04月01日 18:12
<復活節礼拝のご案内>日時:4月16日(日) 礼拝―10:30~11:30 愛餐会―12:00~13:00メッセージ「だれを捜しているのか」 ぜひご参加ください。
1517年
2017年03月05日 10:00
わたしたちの教会はプロテスタント教会に属しています。プロテスタントとは抗議をする者といった意味ですが、これはルターがローマ・カトリック教会の一員として問題の提起をしたことからきています。
ルターが言ったことを端的に言うとこうなるかとおもいます。人の義とされるのは神の恵みによってのみである。これに対しローマ・カトリック教会が主張したことはこうなるかとおもいます。人の義とされるのは神の恵みによることはもちろんだが、神は恵みによって義とされた者が愛の行為をする者になることを期待している、そうなることによって神の恵みは完成する、ルターのように《のみ》と言ってしまうと、人間の応答としての愛の行為はどうで
マルコ福音書から(35)15章1~5 《神の沈黙》
2017年02月10日 14:05
物語はイエスがローマ帝国のユダヤ総督の官邸にて総督ピラトによって尋問される場面を描く。
ユダヤ体制側はイエスを極刑にせよと迫る。ピラトはイエスに弁明を促す。イエスはそれをせず沈黙する。ピラトはイエスが弁明せず黙っているのか分からなかった。
ここで沈黙するイエスは福音書のこれまでのイエスとは違っている。ここに来るまでのイエスは語る人であり語り続ける人であったが、ここでは語らない人であり、沈黙する人である。この沈黙するイエスを伝えるこの物語は何かを語っていると思われる。
ここはイエスが沈黙する人であることに
発想の転換
2017年02月05日 10:00
「コペルニクス的転換」という言葉がある。発想を逆転させるという意味である。地球は動かない、動くのは太陽であるとする考え方からその逆の動くのは地球であって太陽は動かない。こういう発想の逆転を言うときこの言い方が用いられる。
「少数者」の人権を主張し守る運動の歴史の中でこの「コペルニクス的転換」が起って行った。それが起こる前は「少数者」が「多数者」に合わせるため自分を変えるべきとされていたが、それが起こってからは自分を変えるのは「多数者」であるという「発想の逆転」が起こった。
ところが、政治的には、「少数者」を「施設」に収容する、それがおこなわれていった
マルコ福音書から(34)14章66~72 〈ガリラヤ者〉
2017年01月28日 09:48
物語はペトロがイエスのことは知らないと言った物語である。
ここでペトロはイエスとは何の関わりもないと言った。そのとき彼は「呪いの言葉さえ口にした」。このとき彼は自分に嘘があるならこの身が神に呪われてもよいと、そこまで強く言い切った。ここで彼はイエスとの関わりを三度にわたって否定した。三度とは幾度も幾度もという意味。物語はこのようにイエスとの関わりを強く否定するペトロを描いている。
ここは注意して読む必要がある。
ペトロに投げかけられた言葉は
「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」である
ここを注意して読んでみると、ペトロがイエスとの関わりを否
土の人
2017年01月28日 09:46
「土人」は人を差別する最悪の言葉であるが、これに「の」を入れ「土の人」とすると聖書の言っている人間のことになる。創世記2章の物語によると人間は「土」で造られている。
「土」の意味は〈もろい〉〈よわい〉。人間が土で造られているということは〈もろい〉〈よわい〉を当たり前のこととする。だが、このことを受け入れることは簡単なことではない。
キリスト教の礎石の位置にある人パウロは重い病いをかかえていた。彼の告白によると、癒されることを繰り返し祈り願った。このことは彼においても〈もろい〉〈よわい〉を当たり前のこととすることが難しかったことを物語っている。
パウロの確信するキリスト教は「人間が義と認められ
マルコ福音書から(33)14章60~64 〈イエスはいかなる方であったか〉
2016年12月16日 14:22
福音書には「イエスはいかなる方であったか」が語れている。福音書には何と語られているか。
福音書の読者としてこの問いの答に接近する方法の一つとして考えられるのは、イエスは十字架刑にて抹殺された、なにゆえそうされたか、その原因を考えることによって、イエスはいかなる方であったのかを知るという方法である。
ユダヤ最高法院の法廷はイエスを有罪にした。その有罪理由は何であったか。
裁判長の大祭司は沈黙を続けているイエスに対しこう尋問した。
「お前は自分をメシアであるとするのか。」
イエスは答えた、「そうです。」
すると大祭司は言った「諸君は冒瀆の言葉を聞いた。」ここで大祭司は
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