記事のアーカイブ

夏の悪夢

2015年08月02日 10:30
  私は集団的自衛についての安倍首相の説明が理解できない。 彼はこう言う、日本の存立が危うくなると判断されるときには未だ日本が武力攻撃をうけていなくても日本から先に武力攻撃することができる。 この説明に対し日本の存立が危うくなると判断するとき何が根拠になるのかの問いに、彼はこう言う、いろいろなことを総合的に判断する。 総合的にとはどういうことかの問いには、こう言う、総合的の内容を言うことはできない、日本に武力攻撃してくる相手にこちらの手の内を明かすようなものであり、また国家機密であるから。 要するに安倍首相の集団的自衛についての説明は全て政府に任せよということ。これは戦争が必定となる

8月2日・「平和聖日」の礼拝へのご案内

2015年07月25日 15:31
  日本キリスト教団は広島と長崎への原爆投下のあの日に近い日曜日を「平和聖日」と定めており、今年は8月2日です。 わたしたち中野桃園教会はこの日に「主の日の礼拝」をささげ、その中で敗戦後70年を迎えたこの国にある教会としての祈りを聖書から聴きたいと思っています。 礼拝は午前10時30分から1時間ほどです。 どうぞいらしてください。

マルコ福音書より(17)6章30~44  〈あなたがたが食べ物を〉

2015年07月25日 15:27
物語はイエスが大勢の人々にパンを分かち与えた物語。 いまいちどこの物語を読み直してみたい。    次のイエスの言葉に注目したい。 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」   「あなたがた」は弟子たちのこと。イエスは弟子たちに命じる、「あなたがたが食べ物を与えよ」と。このイエスの命令に対し弟子たちは不服を申し立てる。「わたしたちが200デナリオンものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか。」弟子たちはなにゆえ不服を申し立てたのか。   ここできょうの物語より前に置かれている物語を読む必要がある。それは6章7~13に記されている物語。それはイエスが弟子たちを

マルコの福音書から(16)5章25~34  〈あなたの信仰〉

2015年07月25日 15:25
一人の女が登場する。 物語は彼女の状況について詳しく記している。    彼女は12年間も出血が止まらず、多くの医者にかかってひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるという状況にあった。物語はこのように詳しく彼女の状況を記している。    福音書にあるイエスの癒しの物語はイエスの言動については詳しく記しているが、イエスの癒しを受ける側の者がいかなる状況であるかについては簡略な描写となっている。その傾向にあるものが多い。しかし、この福音書物語はイエスの癒しを受ける側の者の状況について詳しく記している。この点がこの物語の特徴である。物語はここに使

救いについて その2

2015年07月05日 10:30
  新約聖書のヨハネ福音書は神による救いについてどのように言っているだろうか。この福音書によく知られた文章がしるされているが、それは「神は独り子を与えるほどにこの世を愛された」である。  このよく知られた文章を解くと、「独り子」は「イエス」、「与える」は「引き渡す」という意味、引き渡す先は「この世」、「この世」とは人々のことを言っているのだが、それを「世」という表現で言っている、「世」はこの福音書では或る性質をもったものとして登場、それは自分の非を指摘されると強く拒否する、光に照らされないように逃げる、「闇」という性質をもつ、「愛された」は真正面から向き合う在り様のことである。  こ

マルコの福音書から(15)4章1~9 〈悪霊の憑依〉

2015年07月02日 21:12
物語はイエスに近寄って来る人が現れるところから始まる。 イエスに近寄って来た人は墓場からやって来た。この人は墓場を住処としていた。   墓場は命を終えた者の場。この人は命を終えた場の墓場に留め置かれていた。この人はそこで鎖で縛られていた。この人は命を終えていない、生きている。けれども、この人は命を終えた者を置く場の墓場に留め置かれ、そこで鎖で縛られていた。推察するに、この人は社会に出て来ては迷惑であるとされた。この人は社会から隔離され、社会の外に置かれた。そこから出て来ることは困るとされた人であった。    物語によると、この人は自分を縛り付けている鎖を引きちぎったとある。自分の居場

救いについて

2015年06月07日 10:30
キリスト教は救いについて宣教するがその救いとはどういう内容であるかと問われると答えを一言で言うのは難しい。理由は聖書に記されている救いについての内容がいろいろであるから。新約聖書に限ったとしても救いについての主張は多様となっている。 新約聖書には四つ福音書があるが救いの内容はそれぞれである。救いがナザレのイエスにおいてもたらされたということでは一致しているがその救いの内容となると多様である。 福音書の中で最初に書かれたマルコ福音書の言う救いは「癒し」と「会食」の中にあると言ってよい。今日このマルコ福音書の言う方向で歩もうとしている人は自分の場でこれをなにほどかでも行おうとするのである ではマタ

マルコの福音書から(14)4章35~41  〈向こう岸へ渡ろう〉

2015年05月16日 20:42
  物語はイエスが風を静める物語。   「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。」 弟子たちはおどろく、 「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか。」 イエスは弟子たちに言われた、 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」    弟子たちは風を静めるイエスを見て想起しなければならないことがあった。それは出エジプト記にある物語。   ヘブライ人たちは苦役のエジプトを脱出するに当たり海を渡らなければならなかった。その海は沼地の湖であったようである。追ってきたエジプトの軍隊に

対話不在

2015年05月03日 10:30
  「言は肉となった」―これは新約聖書ヨハネ福音書によるイエスが誰であるかについての説明、これによるとイエスは言が人間となった存在である。古代教会はイエスが誰であるかの説明として「真の人」という表現を用いたが、これによるとイエスが「真の人」であるということは「言が人間となった」存在である。 ここには人間とは何であるかについての示唆がある。これによると、人間とは言である、ということ。ここで「言」とは何であるかの問いに意思の伝達の通路であると答えておきたい。この通路で意味されていることは互いの意思の伝達の交流である。人間とは言である、とすれば、人間とは互いの意思の伝達の交流に生きる存在で

マルコの福音書から(13) 4章13~20 〈岐路〉

2015年04月13日 09:39
きょうの物語には受け入れた神の言葉を保ってゆくことができなくなる場合が三つ記されている。   その三つを確認すると、 受け入れた神の言葉をサタンが来て奪ってゆく場合、 受け入れた神の言葉のゆえに迫害に遭い神の言葉を保ってゆくことができない場合、 経済的に豊かになることによって神の言葉を保ってゆく必要がなくなるという場合。   きょうの物語が扱っている三つには共通点がある。それは事情によっては神の言葉を保ってゆくことをしないようになるということが起こるということ。きょうの物語はこの問題を扱っていると思われる。きょうの物語にはこの福音書の共同体に起こっている事情が映し出されてい
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