マルコ福音書から(7) 2章1~12 〈家にて〉
きょうの物語で初めに留意したいのは、「イエスはその人たちを見て」。
イエスが見ているものがある、それは「その人たち」。「その人たち」とは誰であるか、それは病んでいる者を運んできた者たちである。ここでイエスがまずもって見ておられるのは病んでいる者ではなくて、病んでいる者を運んできた者たち。すなわち、イエスが見ておられるのは病んでいる者の周囲にいる者たち。
福音書著者は病んでいる当事者に向き合うイエスを描く前に、病む者の周囲にいる者たちを見ているイエスを描く。著者が入手した物語伝承のイエスは病む者の周囲にいる者たちが病む者にどのように関わろうとしているかを見るイエスである。
物語伝承によれば、その者たちはイエスの所に病む者を運んできた。福音書著者はこう記す、「イエスはその人たちの信仰を見て」。福音書著者が読者にまずもって意を留めるよう求めているのはこの点ではないかと思う。
ところで、きょうの物語のイエスは病んでいる当事者に問うということをしていない。この点もきょうの物語の重要ポイントではないかと思われる。
ヨハネ福音書の5章に記されている病の癒しの物語では、イエスは癒しを行う前に病んでいる者に「治りたいのか」と問うている。イエスは病んでいる当事者の意志を問うている、主体意志を問うている。ヨハネ福音書のこの物語には当事者の主体意志を確認したうえで事を進めるとする重要な問題提起がなされていると言ってよい。
きょうのマルコ福音書の物語では、イエスは病んでいる者に問うことをしていない。病んでいる当事者が問題の解決を望んでいるのか、その意志を問うということをイエスはしていない。ここに運ばれてきている病んだ者は運ばれてきているだけである。ここは当事者自身の主体意志を確かめることがあってよい。しかし、イエスは主体意志を問うことをしていない。このイエスのありようから示唆されることがある。
かかえている困難はその困難の当事者を沈黙の人にしてしまうことがある。当事者の主体性は困難の深みの中で力尽き、失われるということがある。困難は当事者の主体性を崩壊させる。このような場合、主体意志を問うことはしてはならないことなのである。
きょうの物語のイエスは病んでいる者に問うということをしていない。イエスは病んでいる者が陥っている困難の深みを知っておられる。当事者の主体性が崩壊せしめられる困難の深みをイエスは知っておられる。
イエスはこの困難にある当事者に向ける言葉は問いではなく、それとは別な言葉であるべきだということを知っておられる。きょうの物語のイエスは困難の渦中にある者に問う言葉を向けない、それとは別な言葉を向ける。その別な言葉は、
「子よ、あなたの罪は赦される。」
イエスはここで病む者に罪の赦しを宣言している。
このイエスの赦罪宣言について、ここで考えなければならないことがある。
この赦罪宣言はある前提のもとで成り立つ。それは病なるものは罪が原因しその結果であるとする因果応報を前提として成り立つ。しかしイエスはその考えを持っていない。
それを示す代表的な個所はヨハネ福音書九章。そこに視力の自由を失っている者が登場。イエスはその原因を罪にみる見方を全的に否定。こう言われた、「本人が罪を犯したからでもなく、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
きょうの物語ではイエスは病の癒しを「罪の赦し」としている。これはイエスの本来の考えに反するものではないかと問うてよいであろう。これはいったいどういうことであるのだろうか。ここであらためて病んでいる者の困難について考えてみたい。
この病んでいる者はもしかしたら当時の社会通念にとらわれていたのではないか。自分が今病んでいるのは自分が過去において間違いを犯したゆえのことであったのではないか。しかし、過去に戻ることはできない。この病んだ者は自分の過去のことで苦しんでいる。戻ることのできない過去のことで苦しんでいる。この者はどうすればいいのだろうか。
この当事者がこの苦しみから解放されるには、知的な教えが有効である場合があるかもしれない。すなわち、あなたの考えは因果応報の社会通念でしかない、それに捕らわれていることはない、この知的な教えは、この当事者が過去から解放されるために有効である場合があるかもしれない。しかし、ここでのイエスはその知的な語りをせず、「あなたの罪は赦される」と宣言した。
「罪」という言葉は聖書では「負い目」という意味がある。「負い目」のない者はいないだろう。人は「負い目」に苦しむ。人はこの過去のことで苦しむ。ここでイエスは「あなたの罪は赦される」と宣言した。このイエスの赦罪宣言をここに連れてこられた病む当事者に即して言えばこうなろう。あなたを苦しめている過去の負い目は赦免された、自分を咎め追い込むことは今日から止めよう。
物語によると、赦罪宣言したイエスを咎めだてる者たちがいた。その者たちは律法学者。彼らは聖書について正確厳密に解釈することのできる者たち。彼らのイエスに対する咎めだてはこうであったろう。罪を赦すことができるのは神のみ、それゆえ罪の赦しを宣言したイエスは自分を神の位置に置いており、これは最も重い罪を犯したことにほかならない。
律法学者たちのこの言うところに理があることは認められねばならない。罪の赦しの宣言は個人的に軽々になされてよいものではない。罪の赦しの可否に関することは公的に承認された審判の機関が扱うものであって、罪の赦しの可否はそこでの慎重なる検討を経て出されるものである。
イエスはこの理を承知していたが、これに従わず、罪の赦しを宣言した。イエスはこうすることによって生じることついて承知していたと思う。イエスがユダヤ政府当局に逮捕され裁判にて死刑に相当するとされたときの罪は、自分を神の位置に置いたとする罪であった。赦罪宣言をすれば神の位置に自分を置いたとされ重罰に処せられる、イエスはこのことを承知していたと思う。
物語によると、イエスは病む者に罪の赦しを語っただけでなく、律法解釈の権威者と目されていた律法学者たちに向かって宣言する、
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」
このイエスの赦罪宣言を聞いていたイエスの支持者たちはイエスの身の安全を心配し、罪の赦しには触れないで、病の癒しだけにしておいたほうが無難ではないのか、と言い合っていたのではないか。しかし、イエスは、病の癒しの働きだけでなく罪の赦しを宣言するのであった。イエスはここに連れてこられた過去の負い目に苦しむ者にそこからの解放が起こるよう罪の赦しの宣言をするのであった。
イエスはこうすれば自分の身に危険が及ぶことを承知していた。イエスはそれを承知のうえでこの病む者に「あなたの罪は赦される」と宣言。イエスのこの宣言は命懸けのものであった。実際、この赦罪宣言のゆえにイエスは死刑へと追い込まれたのである。
ここで、物語の結びにあるイエスの言葉を読むことにする。それは病んでいた当事者に語ったイエスの最後の言葉である。
「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで、家に帰りなさい。」
ここでイエスは「わたしはあなたに言う」と語った。ここでイエスは病んだ者と向き合っている。イエスは物語の初めでは病んだ者の周囲にいる者たちと向き合った。物語の中ほどでは律法学者たちと向き合った。物語の結びでは病む者と真正面から向き合っている。
ここでイエスが病んだ当事者に語った言葉に三つの動詞が出ている。すなわち、
「起きよ」「担げ」「行け」。
この三つの言葉はいずれも命令形。ここでイエスが病んでいた当事者に語った言葉は、病んだ者が自ら動く、それを促す言葉であった。イエスは病んだ者に罪の赦しの言葉を語った後、その人が自分で動くこと、それを促すのであった。
病んだ当事者はイエスから罪の赦しの言葉を聞いた。しかし、それだけを聞くことでイエスとの関わりが終わったのではなかった。この者はイエスからさらなる言葉を聞く。その言葉はいずれも動詞で、しかも、命令形。
「起きよ」「担げ」「行け」。
物語の結びは、罪の赦しの言葉を聞いた者がイエスの言葉に促され自ら動くことを始めた、とある。福音書著者は、これと相似することが福音書を読む読者にも起こると語っているように思われる。