受難節
今年の受難節は2月10日から始まる。
福音書によると、イエスは十字架死を受け入れたとき「御心が成りますように」と祈った。ここで知りたいことは、イエスの言われた「御心が成る」とはどういうことであるのか。
イエスの十字架死の後、このイエスの死を「罪の贖い」のための死であったと受け取った人々がいた。新約聖書がそれを示しているが、そこで言われている「罪の贖い」は「罪の償(つぐな)い」ということであると言ってよいようだ。人々はイエスの十字架死は「罪の償い」のためであったと受け取り、イエスの祈りの言葉の「御心が成る」とは「罪の償い」が成るということであると受け取った。この受け取り方は後に成立するキリスト教会の中心的な信仰教理となってゆく。
私はこの信仰教理を今は受け入れていない。理由を端的に言うと、この信仰教理でゆくと神は罪の償いを要求する神となってしまう、イエスの神が罪の償いを要求する神であるとは私には思えないからである。私はキリスト教会のこの信仰教理について検討の必要があると考えている。
聖書において「贖い」ということが主題として出てくるのは「出エジプト記」である。そこでは「苦役の地からの脱出」が「贖い」という語で表現されている。留意したいことは、そこには「罪の償い」ということはまったく出てきていないということである。それは当然である。苦役の地で苦役を強いられている人々が苦役からの脱出をするに当たり「罪の償い」をする必要はないからである。私は、福音書の証言するイエスの十字架死において成った御心とはこの「出エジプト記」のいう「贖い」のこと、すなわち苦役の地からの脱出の意味での「贖い」であったと理解する。
福音書の証言するイエスは「罪の赦し」を語っている。イエスは「罪の赦し」を語るとき、「罪の償い」を条件としていない。イエスは「罪の赦し」に見合う「罪の償い」を求めて取引をする方ではない。
この福音書の証言するイエスから私は次のことを示される。わたしたちが「罪の赦し」を求めるとき、求めざるをえないとき(ここで私の念頭にあるのはこの国のなした「戦争犯罪」のことなのだが)、このときわたしたちがなすべきことはひたすら「赦し」を求めること、率直に言い訳なしに赦しを求めること。
私は福音書の証言するイエスからこのことを示され続けている。