2016年05月01日 10:30

 

新聞で知ったのだが、現内閣は4月1日の閣議で「憲法9条は一切の核兵器の保有および使用を禁止しているわけではない」、ただ「政策的判断として核兵器を保有しないことにしている」、とする答弁書を決定したという。これは言いかえると、「自衛のため」なら核兵器の保有および使用はできないことはない、ということを言ったことになる。

この国の現内閣が核兵器の保有および使用を憲法に反するものではないとするその理由は、憲法は自衛のための戦力を持つことまで禁じているわけではない、それは認めている、それゆえ「自衛のため」の範囲内であれば核兵器を保有し使用しても憲法に反しない。

4月から集団的自衛権の発動ができることになった。この国日本への攻撃が推定される場合、自衛隊が海外に派遣され、先手を打ってそれを攻撃することができる。この場合、政策的・軍事的判断として核兵器の使用はできないことではない、「自衛のため」の範囲内であれば、核兵器の使用はありうることとなる。

 

この国は71年前核兵器を使用された国。それゆえこの国は広島と長崎がいかなる惨状となったか、ひとびとがいかなる悲惨を強いられたかを知っている。しかし、この国の現政府は核兵器を保有し使用することは、「自衛のため」ならばできないことではない、ありうると声高に言う。

この国は5年前原子力発電所の破壊に直面した。それゆえこの国は「核」がいかなる惨状をきたらすか、ひとびとがいかなる悲惨を強いられるかを知った。しかし、この国の現政府は「核」の使用政策を続ける。ここでも「自衛のため」(経済上の)と主張する。

「核」は「自衛のため」にならず、むしろ「破壊のため」になることを我が身に受けそれを証ししてこられた方々がおられる。これまで「核兵器」の使用が止められ得てきたのは、この方々の存在と活動によってであると言っても決して言い過ぎではない。この国の現政府の政策はこれを否定するものと言わねばならない。

教会は教会の拠って立つ聖書によれば、国家と対峙する存在、教会が国家と対峙したとき教会は教会となる。その対峙の仕方も聖書は提示、それは「ことば」によって。教会は国家に物言わねばならない存在、ことに「核」に関しては。