マルコ福音書から(34)14章66~72  〈ガリラヤ者〉

2017年01月28日 09:48

 物語はペトロがイエスのことは知らないと言った物語である。

 

ここでペトロはイエスとは何の関わりもないと言った。そのとき彼は「呪いの言葉さえ口にした」。このとき彼は自分に嘘があるならこの身が神に呪われてもよいと、そこまで強く言い切った。ここで彼はイエスとの関わりを三度にわたって否定した。三度とは幾度も幾度もという意味。物語はこのようにイエスとの関わりを強く否定するペトロを描いている。

 

 ここは注意して読む必要がある。

 

ペトロに投げかけられた言葉は

「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」である

ここを注意して読んでみると、ペトロがイエスとの関わりを否定したとき、ペトロが否定したのは次の言葉であった。すなわち、「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」。

 

ここで留意させられるのは「ナザレのイエス」というところ。ここでペトロはイエスとの関わりを否定したのであるが、精確には「ナザレのイエス」との関わりを否定したのである。

 

 いま一つ留意させられるのは、ここでペトロに投げかけられた次の言葉である。

「お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」

 ここを注意して読んでみると、ペトロがイエスとの関わりを否定したとき、ペトロが否定したのはこの言葉である。すなわち、「お前は、あの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」。

 

ここで留意させられるのは「ガリラヤの者だから」というところ。ここでペトロはイエスとの関わりを否定したのであるが、精確には「ガリラヤの者」とされることを否定したのである。

 ペトロはガリラヤの海で漁を生業としていた「ガリラヤの者」である。ペトロはこのガリラヤの海辺でイエスの招きを受けたが、そのイエスはナザレから出て来た「ナザレのイエス」であった。そうすると、ペトロが否定したことは自分の出自についてであったということになる。

 

ここは福音書の読者として読み過ごすことのないよう注意が必要である。

そして、この福音書の物語描写の意味するところを考える必要があると思う。

 

 この福音書には物語を描写する方法として全く異なるものを並べるという方法が採用されているが、ここにもそれがある。

 

ここでペトロは「ナザレのイエス」との関わりを否定、また自分は「ガリラヤの者」とされることを否定したのであるが、この福音書はこのペトロとは全く異なる人々を登場させている。それは16章に記されている。

 

そこには三人の女たちが登場している。そこにはその女たちの名が記されていて、

マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメである。

彼女たちはイエスに香油を塗るために墓に入る。すると彼女たちに白い衣を着た者が声をかける。その者が彼女たちに語った言葉はこうである。

「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのか。」

「そのナザレのイエスはここにはいない。ガリラヤにおられる。」

「ガリラヤに行けば、ナザレのイエスに会える。」

彼女たちはこの後ガリラヤに行った、と、わたくしは推測する。

 

ここに描かれているのは、「ナザレのイエス」に会おうとしている者たちの存在であり、ガリラヤに行き、「ガリラヤ者」となる者たちの存在である、と言ってよいのではないか。

 

 ここには対比がある。16章の物語に登場する女たちと一四章の物語に登場するペトロとの対比が。

両者は全く異なる。一方は「ガリラヤ」「ナザレ」との関わりを否定、他方は「ナザレ」「ガリラヤ」との関わり求める。

この福音書はこのように全く異なるものを並べて描くという方法を採用。この描写方法によって何かを言おうとしているにちがいない。では、それは何であろうか。

 

 ここで、最初期のキリスト教の歴史の状況について考慮しておきたい。

最初期キリスト教の中心はエルサレムにあった教会であるが、これと並んで活発な働きをしていた教会がある。それはアンテオケにある教会。このアンテオケの教会で働いていたのがパウロである。

パウロの手紙に「ガラテヤ書」があるが、その中に次の言葉が記されている。

「キリストにあるあなたがたは、もはや、ユダヤ人もなく、ギリシャ人もない。

  奴隷の身分も自由の身分もない。男も女もない。」

 

これはアンテオケの教会における洗礼式の際の宣言文であった。これの意味するところは明瞭である。民族の違い、社会的身分の違い、性別の違いによって制限

されたり、差別を受けたりする、これがあるのが現実であるが、しかしそれを突破して行く、突き破って行く、ということがこの宣言にて言われている。

 

この宣言は宣言されただけではなくて、実際に実行されたようである。

ある新約学の書に次のように紹介されている。

教会の主導的立場に女性が就任していた。その指導的立場は今日の教区議長くらいに当たるようである。その女性はユダヤ人ではなく異邦人であった。彼女は奴隷の身分であった。

 

この女性は教会会計の支弁によって奴隷の身分から自由の身分へと至ったと思われる。当時の書き物に、「これ以上、教会財政をこういうことのために使わないで欲しい」という主旨のことが記されているという。

 

ここから推察されるのだが、ガラテヤ書3章に記されている宣言文「ユダヤ人もなく、ギリシャ人もなく、奴隷の身分も自由の身分もなく、男も女もない」これは実行されていたと言ってよい。

 

この書き物に言及されている女性の事例は、民族的相違・経済的格差・性の違いによる差別の現実を突破する、これがアンテオケの教会において実行され、実現もしていたことを示すものと言ってよい。

 ここで、このようなアンテオケの教会のことを紹介したのは、わたくしの推測では、このマルコ福音書一六章に登場している三人の女たちはこのアンテオケの教会と関わりがあると思われるからである。

 

アンテオケの教会の成立事情を文献上明らかにすることは難しいとのことである。が、わたくしは次のように推定する。

 

アンテオケの教会は、ガリラヤに成立していた教会的集会の者たちがガリラヤにおける政治的社会的な変動によって離散を余儀なくされ、その者たちが大都市アンテオケに逃れ、教会の成員となるといったことであったのではないか。マルコ福音書一六章にその名が明記されている三人の女性たちはその主要メンバーであったのではないか。

 

わたくしはこのように推定するのだが、この推定をもってきょうの福音書物語を読むと、この物語の意味するところが明瞭になるように思う。

 

 ペトロはガリラヤ者とされることを否定した。このペトロの否定を最初期キリスト教の歴史事情を考慮して推測してみると次のことが言えてくる。すなわち、

 

このペトロの否定はガリラヤ教会の者とされることの否定であるが、これはガリラヤ教会を信仰上の故郷としているアンテオケ教会に対し距離を置くということの表明であったのではないか。そして、このアンテオケ教会に対して距離を置くということは、アンテオケ教会の洗礼式の宣言に示されている内容に対して距離を置くということではなかったか。

 

 ここで当時の社会状況を考慮して、次のように述べることがよいかもしれない。

 

ユダヤ社会はローマ帝国支配に抗うユダヤ民族主義運動が興隆。この事情の中で「ユダヤ人もなく、ギリシャ人もなく」の宣言は反ローマのユダヤ民族主義者たちの感情を逆撫ですることであり激怒の対象となることは必至。ペトロはユダヤ民族主義の渦中にあるエルサレム教会を顧慮し、アンテオケ教会の宣言に距離を置いたのはないか。

 また「奴隷の身分もなく、自由の身分もない」の宣言は、奴隷制のローマ帝国において奴隷を所有する者が教会員の中にいたとすれば、それはありうることであったろう、その者に奴隷の所有を禁じ奴隷を解放するよう説くことになるゆえ、この宣言の実行は難事であったろう。

 

そして、「男も女もない」の宣言は、女は表に立たず男を立てるとするローマ帝国社会の慣習を破壊するものとみられたであろうからして、社会の慣習を破壊することに対してはことのほか非難が集中することがありうるからして、この宣言の実行も相当の難事であったことであろう。

 

 きょうの福音書物語に描かれているペトロが「ガリラヤ者」とされることを否定したことは、ペトロがガリラヤ教会を信仰上の故郷とするアンテオケ教会に対し距離を置くとの表明であり、アンテオケ教会の取り組む課題を自分の課題とすることを避けたということであったのではなかったか。

 

きょうの福音書物語はペトロを次のように描く。ペトロがナザレのイエスのことは知らない、自分はガリラヤ者ではないと否定したとき、彼にイエスの言葉「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」の言葉が甦ってき、彼は「いきなり泣き始めた」。「いきなり」とは「身を投げ出した」ということ、つまりペトロは崩壊した。

 

この福音書はペテロの崩壊した姿を描き出し、それをもって彼を描き終える。この福音書のこのペトロについての描き方、すなわち崩壊する姿をもって描き終えるこの福音書の語り方、これを福音書の読者はどう読むか。わたくしはこう読む。

 

崩壊することで終わった人間、この人間をそのまま包み込む、それが「イエス」というお方であった、とこの福音書は語っている。わたくしにはそう読める。