「誘惑」

2019年03月22日 16:33

創世記2章からの原初史物語の作者は〈人間〉に集中させてこれを扱うのであるが、この物語作者が扱う〈人間〉は〈善悪を知る知識の木〉の実を食べる人間である。ここは原初史物語における最も重要なところであるとおもわれる。ここも丁寧に読んでゆこう。

 

3章1

「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』」

 

ここには寓話が用いられているが、蛇の開口一番の言葉はこうである、〈園にあるどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。〉この蛇の言葉は2章16~17にしるされている神が言われた言葉の反復をしているのだが、吟味してみると繰り返しでなく変えている。どう変えているか。

 

2章16~17

「園のどの木からも取って食べてよい、ただし一つだけは食べてはいけない。」

 

ここで蛇は神が述べた言葉〈園のどの木からも取って食べてよい〉を〈園のどの木からも取って食べてはいけない〉に変えている。つまり、〈園にあるどの木からも取って食べてよい〉の神の言葉に示されている〈自由〉と〈許し〉は全て削除し、神の言うところは〈全てを禁じること〉であると、逆なものに変えている。

 

2章16~17にしるされている神の言葉の中に〈ただし一つだけは食べてはいけない〉がある。その〈いけない〉は〈ただ一つだけ〉に関わるものであったが、蛇は〈ただ一つだけ〉に関わる〈いけない〉を全てに及ぶものとした。つまり、蛇は、神の言うところは〈全てを禁じること〉である、とした。

神が人間に語ったことは〈園にあるどの木からも取って食べてよい〉、すなわち人間には自由と許しが与えられているということ。神が人間に語ったことは〈自由〉〈許し〉、それが全ての事に先立つ。神が人間に語った〈一つだけはしてはいけない〉、この禁止はその後に語られたものであった。

 

神は人間が生きるに十分なものを与え、人間は十分に生きることができるということ、これの後に〈一つだけはしてはいけないものがある〉と語った。つまり、人間は〈一つだけはしてはいけない〉ことをしなくても十分に自由に生きることができるということ。これが神の語るところである。

 

この神の言われた〈一つだけはしてはいけないものがある〉、この禁止も実は人間の自由のために与えられたものである。というのは、人間はこの禁止をおこなうとき、人間は与えられた自由をさらに展開することになるのであり、自由をさらに拡大してゆくことになるからである。

 

ここに登場している〈蛇〉は隠喩表現である。誰を隠喩しているのか。この〈蛇〉にはここの3章1において〈最も賢い〉の形容がなされている。これを手がかりにこの〈蛇〉が誰を隠喩しているか探ってゆくと、〈王ソロモン〉にゆきつく。

 

列王記上5章10には、〈ソロモンの知恵は、東のどの人の知恵にも、エジプトのいかなる知恵にまさった〉とある。そうすると、〈最も賢い蛇〉この寓話表現によって隠喩されているのは〈王ソロモン〉であると言ってよいとおもう。

 

ここでその〈ソロモンの知恵〉とはどのようなものであったか、〈列王記上〉にしるされているところをみておきたい。

 

列王記上

 

ソロモンはイスラエル諸部族の自治制を廃止し、北イスラエルを十二県に分け、代官を立て徴税、強制的に労働者を徴募し、石切りなどの重労働に駆り立てその数は一八万。エジプトから戦車を千四百両輸入、軍馬を大量に輸入、騎兵は一万二千、徴兵制を導入した。ソロモンは王国をエジプトになぞらえた官僚軍事中央集権国家へと仕立てていった。

 

ソロモンの宮廷の食べ物のことがしるされている。それによると、一日で消費される食べ物は、麦粉90コル(1コルは230リットル、90コルは200リットルの大きなドラム缶200本分ほど)、肥えた牛30頭、羊100頭、そのほかに雄鹿、かもしか、こじか、鳥など。一日だけでこれだけの大量の食べ物が消費されたとしるされている。この大量の食べ物はソロモンの宮廷の規模がかなり大きかったことを示す。これのための費用は巨額を必要としたろう。

 

軍備のために必要とした巨額の費用を合わせると、この王国は莫大な費用のかかる国家となっていたわけだが、それをまかなうためにソロモンは民から巨額の徴税をした。この税の負担に耐え切れなくなった〈独立自営農民〉は耕作地を売却、あるいは債務者となり、その債務を払うため大土地所有者の農園で債務奴隷となり、その農園の傭兵となるほかなかった。

 

ソロモンは王権の絶対化をおこなっている。ソロモンは預言者を介することなく、自分で夢を見、そこで神の言葉を聞く。自分で預言者の言葉を引用し、自分の王位と神殿建造の正当性を主張し、神殿の奉献式も自ら主催し、会衆を祝福した。つまり、ソロモンは王と預言者と祭司の機能の全てを占有する独裁者となった。〈イスラエル〉という共同体は、この〈三つの職務〉を担う者は原則的には別の者であった。したがって、ソロモンのしたことは〈イスラエル〉を破壊することであった。

 

〈独立自営農民〉たちは自分たちこそが〈イスラエル〉を担うと自負していた。その自負と立場からすると、ソロモンのすることは〈イスラエル〉を根底から破壊することであるとみなさざるを得なかった。〈独立自営農民〉たちはソロモン体制の中で体制批判が封殺されていたわけだが、その中で、批判を展開した。ただし、その批判は物語に託す隠喩の方法であった。

 

 

ここで三章の物語に戻る。

 

蛇は、神が人間に与えたものは自由であったのに神が人間に示したのは禁止であるとした。蛇は、神を禁止だけを命じる存在であるとした。蛇がここで図っていることは、人間がこの禁止しか命じない神から離れるよう仕向けることであった。蛇は人間が顔を神に向けているそれをやめさせ、そこから蛇のほうに顔を向ける、つまり王朝のほうに顔を向ける、それを図っていると言ってよいだろう。

 

原初史物語の作者は、〈蛇〉のこの策略に対し人間がどう応じたかを語ってゆく。そこを丁寧に読んでみよう。

 

3章2~3

「女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。』」

 

この創世記3章の原初史物語の誘惑物語において蛇が語りかけた対象は3章1にしるされているように、〈女〉に対してである(3章1「蛇は女に言った」)。そして、蛇の語りかけに応じて答えているのはここにしるした3章2~3が示しているように、〈女〉である(3章2「女は蛇に答えた」)。ここはそれゆえ、物語は蛇が誘惑の対象にしたのは〈女〉であるとして描いていると言ってよいだろう。ここで、このことについて考えておきたいことがある。

 

蛇が誘惑の対象としたのは〈女〉であるとしたこの点について、これまで一般的にみられる解釈はこういったものが多くみられる。すなわち、女は誘惑に引き込まれやすい性質を持っているので、蛇は女を誘惑したとする、この解釈に類する解釈が多くみられる。いわゆる学問的水準が高いとされている書においてもそうである。が、はたしてそういった解釈は解釈として妥当であろうか。

 

 

このことに関し、わたくしが示唆を与えられたのは、クラウス・ヴェスターマンの『創造』に述べられているところである。それを紹介する。

 

女は違反するよう誘惑される。男は誘惑される必要はない。彼は単に追随するだけである。それによって物語記者は、一つの罪過に陥るもう一つの可能性を指摘する。単なる追随、あるいは雷同である。再び人間の新しい側面が示される。彼は何とかなりそうなところで、決断を好んで避ける。そして、別のことをそのまま決断させる。

 

物語記者は積極的な可能性に次いで今、人間の共同社会における消極的な可能性を示す。すなわち、社会的怠慢の契機である。雷同者はたいていは無害な人間である。誘惑者の持つ能力もエネルギーも彼は持たない。他人のことを易々といっしょにするという社会的怠慢には、一般に、雷同者が長い間にやってしまうことが何であるかを問うことも怠けてしまうということ、それが含まれる。

  

この旧約聖書学者の述べるところは興味深い。女が誘惑されるこの物語は実は男の問題を扱っているとする。その男の問題というのは〈ただ単に追随する〉という問題である。この旧約聖書学者によれば、ここの物語は〈女の行為〉について物語っているのだが、実は〈男の無行為〉について物語っている。

 

これと同じことを語っている物語がある。それは列王記下21章にしるされている物語である。預言者エリヤが活動した時代のことである。王アハブは農民ノボトのぶどう園を入手したいとするがうまくゆかない。すると妻のイゼベルが代わって策を講じノボトを抹殺、ぶどう園の入手に成功する。この物語において妻イゼベルの行為が目立つが、実は夫アハブの無行為が問題であると、この物語は描いていると言ってよい。

 

創世記3章の原初史物語の誘惑物語において人間の問題が扱われているが、ここで扱われている人間の問題は〈無行為〉という形の行為の問題であるのかもしれない。これは興味ある問題である。権力を得てそこに居座る者の日常は〈無行為〉となる。わたくしは旧約聖書学者ヴェスターマンの言っていることが創世記3章の原初史物語のここのところの解釈として適切であると考える。

 

 

さて、ここで〈女〉は、蛇の誘惑の言葉に対し答える。それが3章2~3にしるされている。その物語本文はすでに掲げたが、いまいちど掲げて確認しておきたい。

 

3三章2~3

「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

 

女が蛇に対して答えたこの言葉は2章126~17においてしるされている神の言われた言葉を正しく認識していることを示している。しかし、微妙なところでその認識は正しくない。

 

ここで彼女は園の中央に生えている木に関しては〈触れてもいけない〉ものであると言っている。彼女がここで〈触れてもいけない〉と言っているその木は〈善と悪を知る知識の木〉のことであるが、神の言われた言葉の中にこの〈触れてもいけない〉の言葉はない、これは彼女が追加して述べた言葉である。この彼女の追加の言葉は次のことを示していると言ってよいだろう。すなわち、

 

神は人間に〈ただ一つの禁止〉を提示した。人間はこれを〈触れてはいけない〉ものであるとした。この受け止めは〈ただ一つの禁止〉を〈触れてはいけない恐怖の戒律〉としたということを示している。この受け止めは〈ただ一つの禁止〉の受け止めとして正しくなかった。というのは、

 

神の人間に与えた〈ただ一つの禁止〉は、すでに述べてきたことであるが、人間が自由を展開し拡大するために与えられたものであった。人間はこの〈ただ一つの禁止〉をおこなうことによって自由をさらに展開させるのであり、自由をさらに拡大するのであるからである。繰り返して言うが、人間は〈禁止〉を守りおこなってこそ自由というものをいっそう展開したということなのであり、また自由の領域をさらに拡大したということなのである。

 

それゆえ、この神の与えた〈ただ一つの禁止〉を〈触れてはいけない恐怖の戒律〉として受け止めることは正しくない、間違いであると言わなくてはならない。蛇の誘惑に直面した人間は神が言われた言葉を正しく認識しているのであるが、微妙な点で神の言葉を誤解してしまっていたと言わなくてはならない。

 

 

蛇はこの人間に対しさらなる誘惑の言葉を向ける。

 

3章4~5

「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』」

 

ここで蛇は言う、人間が〈善と悪を知る〉ことになると、人間が神と同等のものになる、神はそれをねたんで〈善と悪を知る〉ことを禁じているのだ。蛇はここで〈ねたみ〉ということを持ち出してきた。ここで蛇が〈ねたみ〉ということを持ち出してきた意図をおさえておきたい。

 

この〈ねたみ〉は人間が持っている感情である。蛇によれば、神もまたこの感情を持っている。この蛇の考えでゆけば、神は人間から推し量ることができるということである。この蛇の考えでゆくと、人間から類推できる神は人間と同じものであるということになる。この蛇の考えでゆくと、神は人間と同類の存在であり、神は神としては存在していないことになる。

 

ここで蛇の言う、人間が〈善と悪を知る者〉になると、人間が神と同等になる、神はこれをねたんで〈善と悪を知る〉ことを禁じているのだ、この蛇の言うことで何が問題であるか、それをいまいちど言うとこうなろう。すなわち、神を人間と同類のものとし、神を人間と同じものにするということ、そうすることで〈神〉を事実上〈非存在〉にするということ、そう言ってよいとおもう。

 

〈蛇〉が神を〈非存在〉にすることで意図していることは次のことであることは明らかである。すなわち、その空白になった神の領域に〈蛇〉が入り込み自分を〈神〉の位置に置くことである。

ここで問題にしなければならないことは次の点にもある。〈善と悪を知る〉に〈神のように〉が付いて、〈神のように善と悪を知る〉とある。この〈神のように〉は、ここでは〈善と悪についての最終の決定権を持つ〉という意味において言われている。ここでこのことを問題にしておかなければならない。

 

すでに紹介したように、〈神のように善と悪を知る〉、この言葉はダビデ王とソロモン王がこれに当たるとされた讃美の言葉であった。この讃美の言葉〈神のように善と悪を知る〉はダビデ・ソロモン王朝の王権には〈最終の決定権〉があるということ、それが認められていたということを意味する。

 

すでに紹介したが、王ソロモンは自分の王位と神殿造営の正当性を主張、神殿の奉献式も自ら司式し、そして会衆を祝福した。つまり、王ソロモンは王であると同時に預言者であり、祭司の機能を併せ持つ。王権が〈最終の決定権〉を持つとはこういう王と預言者と祭司の全てを占有する形においてであった。

原初史物語の作者は、〈神のように善と悪を知る知識の木〉の実を食べることを人に勧める〈蛇〉は国家には〈権力集中〉が認められていること、〈最終的決定権〉があることが認められていることを人に肯定させ承認せしめようとしている、そのように描いているのではないか、と、わたくしにはおもわれる。

 

ここでも注意が必要である。

 

蛇が自分を神の位置に置こうとしたときのその神についての概念は古代オリエントの王朝国家が想念していた神の概念であった。以前にも述べたがそれを繰り返しておくと、古代オリエントの王朝国家の神の概念は〈強さ〉によって支配し、〈強さ〉において安定安全を保障する、この保障を得たいのであればこの〈強さ〉に服従することが絶対の条件であるとして要求する神の概念である。これに対しモーセから始まったヘブライ人宗教の神は〈弱くされ苦しみにあえいでいる者〉をそこから解放する神、この神は奴隷的屈従の服従を求めることをしない、人自らの主体的な喜びの讃美であるならば受ける神、古代オリエントの王朝国家の神の概念の逆である。〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べることを人に勧める〈蛇〉は古代オリエントの王朝国家の神の概念にからめとられている。これが原初史物語作者の描くところである。

 

そうすると、創世記三章の誘惑物語で扱われている問題は、他の神の祭儀に参加する類の問題ではなく、人間の権力を神にする問題であると言ってよい。

 

ここで扱われている人間権力を神にする問題は国家が成立する以前にも存していたが、この問題が深刻さを増したのは国家の成立においてであった。創世記三章の誘惑物語から察せられるが、この問題が原初史物語作者において最も重い課題となっていた、そういうことであったのではないかとおもわれる。

 

さて、原初史物語は人間が〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べるに至ったところへ語りを進める。

 

3章6

「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」

 

物語は〈善と悪を知る知識の木〉について「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように」見えたと語る。その魅惑的な〈善と悪を知る知識の木〉が何を指しているかについてはすでに述べてきたところから明らかである。〈神のように善と悪を知る〉この最高の賛辞が王のダビデとソロモンに呈されていることからして〈善と悪を知る知識の木〉は〈ダビデ・ソロモン王朝〉を指している。この王朝は〈経済的豊かさ〉を実現した。また、この王朝は軍事の力によって〈安全・安定〉を実現した。民の多くはこれに魅了された。

 

原初史物語の作者はしかし、この〈魅惑的な木〉にひそむ問題を洞察していたとおもわれる。ここで、物語作者が洞察していたところを読み取る試みをしておきたい。

ここで原初史物語作者は「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」としるしたが、物語作者がこの言い方で言っていることは、人間は人間だけの自主的判断によって〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べるという行動をしたということ、そういうことであると解してよいとおもう。

 

そう解してよいとすればここはこうなる。ここで人間は〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べるに至ったのは〈人間自身の判断〉によってであった、人間はこの行動を〈自主的〉におこなった。このとき人間は〈他者である神に聴くこと〉をまったくしなかった。

 

原初史物語の作者はここで、イスラエルに独自な〈超越的他者〉と向き合ってその中で物事を考えるというこのイスラエルに独自なこと、それが〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べるに至った時代には失せてしまっていたということ、それをここで言おうとしているのではないか、と、わたくしにはおもわれる。

 

原初史物語の作者はそうなった世界では何が生じるか、それを語る。物語作者は極めて魅惑的に見え、民の多くが魅了された〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べた結果、何が起きたかを物語る。そこを丁寧に読んでゆくことにしよう。

 

章7

「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」

 

原初史物語の作者は語る、人は〈善と悪を知る知識の木〉の実に魅了され、それを食べることによって、人は〈土で造られた〉自分を恥じる、〈もろさとよわさが当たり前である〉自分を恥じるに至る、人はこのときその自分を隠すに至る、と。

 

 

ここで、人が〈土で造られたゆえのもろさとよわさ〉を隠すために用いた〈いちじくの葉〉について適切な解説があるので紹介する。ここでも挙げるが、月本昭男の『創世記Ⅰ』である。そこに述べられている解説を紹介する。

 

  自分の裸を隠す人間は、いずれ、自分の衣装を誇示することになるであろう。その人間の最初の衣装は無花果の葉を綴った「腰帯」であった。「腰帯」は下着の類ではない。それは、将軍や兵士が戦さにおいて、祭司が儀礼において身につける誇りある衣装であった。

 

とすれば、夏などはその下で日陰を楽しめても、いずれは葉を落として裸になる身近な無花果の樹の葉を綴って「腰帯」にした最初の人間の姿は、読者にある種の可笑しみを誘ったに違いない。神の戒めを破った人間の最初の文化的行動がこれであった。だが、ひるがえって考えれば、自らの衣装だけは無花果の葉ではない、と誰が言えよう。無花果の葉の可笑しみは、裸を恥じる読者にも向けられている。

 

ここで月本昭男が述べていることは極めて重要である。

 

人は〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べたことによって〈土で造られている〉自分を恥じた、〈もろくよわい〉自分を恥じた。どうして〈もろくよわい〉を恥じたのであるか。〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べるとは〈強者〉を優るとし、〈弱者〉を劣るとする価値観に吸い込まれ、取り込まれることであった。それゆえに〈土で造られている〉自分を恥じる、〈もろくよわい〉を恥じる、それが生じた。人は自分の〈もろくよわい〉を隠す衣装によりきらびやかなものを用いるに至る。

 

ここで原初史物語作者の描く人の用いる自分の〈もろくよわい〉を隠す衣装はただ単に衣装の話ではなく、月本昭男が『創世記Ⅰ』のここで用いている言葉を借りて言えば「人間の文化的行動」、それを言っているとおもう。人間の文化的あるいは文明的行動には負の側面がある。その最大のものは〈武器〉である。人は自分の〈もろくよわい〉を隠すために〈武器〉を持つ。

 

原初史物語作者がここで言おうとしていることは、〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べる、そのとき人は〈強者〉を優るとし、〈弱者〉を劣るとする価値観に取り込まれ、〈土で造られている〉自分を恥じ、〈もろくよわい〉自分を隠すに至るが、そのとき人は自分の〈よわさ〉を隠すために〈いちじくの葉〉を用いたが、それは隠喩であって〈武器〉のことを言っている、人は〈武器〉で自分の〈よわさ〉を隠し装うようになる、原初史物語の作者はここでこういうことを言おうとしているのではないか、と、わたくしにはおもわれる。v