「人の創造」

2018年06月22日 17:07

 1章24~28

「神は言われた。『地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。』そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」

 

ここでまず留意したいのは、人の創造が語られるのはこの1章2628であるが、これは地の生きものの創造が語られる1章2428の中に置かれているということである。言い換えると、人は「地の生きもの」の一つであり、他の地の生きものである家畜・這うもの・獣と同じ地の生きものに属しているということである。この書き方に、原初史物語作者の言おうとしていることが示されているとおもわれる。

 

原初史物語の作者は、この後、人が「神のようになろうとする」、それを主題に据えて物語を展開する。原初史物語作者はここで、人は地の生きものの一つであること、つまり人は被造物であるということを述べるが、この叙述は、この後に展開する人が「神のようになろうとする」、これは人が神の創造の被造物であることを棄てるということであるが、これを言うための準備をするものとおもわれる。

 

 また、ここでしるされている神の創造した地の生きものの世界は「神によって良しとされている」この記述も、この後の物語展開のための準備をするものとおもわれる。原初史物語の作者がこの後に主題として展開していることは、人の為したことによって地が破滅せしめられるということであるが、その前に地を良いものとして描く。これは「対比」のために採用された描写方法であるとおもわれる。

 

原初史物語作者はこれからしるす人の為したことによって地が破滅するその暗さを浮き彫りにするため、神によって創造された地の本来の明るさを描写したということではないかとおもわれる。

 

 

ここでみておくことにしたい。イスラエル預言者たちが神によって救済された世界の究極的なありようを描くとき、地の本来の明るさを描く。その代表例は預言者イザヤのメシア預言の中にある。

 

 「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。

子牛は若獅子と共に育ち、小さい子どもがそれらを導く。

牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、

獅子も牛とひとしく干し草を食らう。

乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。

わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」

(イザヤ書11章6~9)

 

創世記の原初史物語の作者の証言する、神の創造した地の生きものに対する神の「良し」の内容は、預言者イザヤが描き出すこのような平和のありようのことである、と言ってよいのではないか。

 

  

さて、原初史物語作者のここの書き方では、地の生きものであるものは「地が生み出す」となっているが、この「地が生み出す」ものの中に「人」は含まれていない。「人」の創造は、神が直接に創造したとなっている。そうすると、原初史物語の作者は、「人」と「それ以外の生きもの」との間に区別を設けている。この問題を考えたい。

 

 原初史物語の作者は、生きものの創造が神による地への委託によると語ったが、この地への委託の中に人の創造を含めておらず、人の創造は神の直接の創造であると語り、人と人以外の生きものとの間に区別があるとしているが、この区別には当時の古代オリエントの歴史状況が関係している。

 

古代オリエントにおける国家の支配の状況は、支配者が奴隷民・捕囚民・寄留民を家畜のように使役しており、かれらは人としての扱いを受けていない状況であった。この古代オリエントの国家支配の状況の中で、創世記の原初史物語の語ること、すなわち人は神によって直接に創造された存在であると語ること、これはいわば「人権宣言」をするに等しいと言ってよい。

 

 

ここで、旧約聖書学者の柏井宣夫が『旧約聖書における創造と救済』で述べている、「神による人の創造」に関するところを紹介する。

創世記の人間創造に関する記述を理解するうえで、古代オリエントの平行例が参考になる。エジプトでは「メリカラー王への教訓」に次のようにある。「神は人間の望みに応じて天地を創造され、水に沈む怪物を追い払われた。かれらの鼻孔に生命の息吹きをつくった。神の体より現れた人間はその似姿なのだ。神はかれらの望みに応じて天に昇り、かれらのために、その食物として草木、獣、鳥、魚をつくった。」

 

これは多くの点で創世記の記事に近い。これは人間一般についてであるが、特にファラオについて、「神のかたち」と呼ばれた。ラーホテプ王は「レーがお前をその像に任じた」と言われており、18王朝のファラオたちは「その生きた像」「地上でのわが生きた像」と呼ばれた。ただし、これらは宮廷用語であって、創造神話ではない。

  

これに対してメソポタミヤでは創造神話の中で「神のかたち」が出てくる。『ギルガメシュ叙事詩』の中で「アルルよ、お前は(人間を)創った。今はその似姿を創れ。アルルはそれを聴き、アヌの似姿を心のうちに描いた。(土で)彼女は雄々しきエンキドウを創った。」とある。これらの古代オリエントの平行例からみると、「神のかたち」は人間、特に王が地上での神の代表として神の支配を代理する、ということになる。

 

創世記の人間創造の記述はこれと重なる。が、同時に相違する点がある。創世記の場合、神の代理者は王ではなく、人間の全てである。全ての人間が王と同じ尊厳と機能を持つ。人間に神の代理としての支配が委ねられているが、人間の人間に対する支配は含まれていない。その支配の内容は、神の祝福(「産めよ、増えよ、満ちよ」)を担うことである。これが顕著な相違点である。

 

 この柏井宣夫の述べるところは、創世記の原初史物語にしるされた人間創造の物語を理解するに当たって有益な示唆を与える。この柏井宣夫の述べるところは、創世記の原初史物語の人間創造の物語を理解する上で最も適切なものとおもわれる。

 

  

ここで、ゲルハルト・リートケの『生態学的破局とキリスト教』(原題は『魚の腹の中で』)の述べるところを紹介する。

 

創世記1章の記述「人間が神のかたちである」の背後に、「抗争調整」の動機がある。「人間が神のかたちである」という記述は、人間と人間との抗争が起こっている中で、人間のありようについて述べている。釈義家たちが「人間は神のかたちである」について出した結論、すなわち王がその民を支配するような仕方で、人間には神の代理としての支配が委ねられているという結論は、次のように理解されなくてはならない。

 

われわれは古代オリエント的専制君主とその残酷さを連想してはならず、イスラエルの王の理想像を思わなければならない。その支配は、正当な政治的・社会的諸関係、また自然における健全な秩序の保証、である。詩編72における王のとりなしの祈りはそれを示している。

 

詩編72 

神よ、あなたによる裁きを、王に

あなたによる恵みの御業を、王の子にお授けください。

王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ

あなたの貧しい人々を裁きますように。

山々が民に平和をもたらし

丘が恵みをもたらしますように。

王が民を、この貧しい人々を治め

乏しい人の子らを救い

虐げる者を砕きますように。

 

この詩編72に詠われている王の像を、創世記1章の「人は地の支配者である」に結び付けると、その「支配者である」は「人は地における抗争調整をする者である」という意味であるが、そうすると、人が地の支配者であるということは、真の王が神のシャロームをつくりだし、保持する働きを担う、ちょうどそのようにすることである。これが、創世記1章で言われている「人が地の支配者である」の意味するところである。

 

このリートケの述べるところは妥当とおもわれる。

 

  

ここで、「男と女とに創造した」について考えてみることにする。

 

 原初史物語作者は、神は「男と女に創造した」と語ったが、この語りに続けて「神はかれらを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちよ。』」、と語った。ここから言い得ることは、人が男と女とに創造されたのは、人の継続のためであるということ。ここはこう言い得るとおもう。ここで、創世記の原初史物語作者のこの語りについて理解を深めたい。

 

 この原初史物語の作者はバビロン捕囚の中にあり、イスラエルの民としては存続の危機にある。預言者エレミヤはこの民に手紙を送り、「子を産み、数を減らさないように」と勧めている(エレミヤ書29章1~8)。

 

このイスラエルの民の状況を考慮して読むとき、原初史物語作者の語る神は人を「男と女に創造した」は、それに続けてしるされた「神はかれらを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、満ちよ。』」からして民の途絶の危機の中で生き残る、この意味に解してよい、つまり、原初史物語の語る「神は人を男と女とに創造した」は、存続が危ぶまれる状況にあった民に生き残ることへの勧めであった、と読むのがよい。

 

わたくしの考えるところ、「神は人を男と女とに創造した」はここに意味限定したほうがよい、言い換えると、ここから「人に関する定義なるもの」を引き出すことはしないほうがよい。すなわち、

 

「神は人を男と女とに創造した」、ここから、人とは男か女かであるという言い方、それ以外はみとめられないとする言い方、さらには、女は子を産むように定められているという言い方、子を産まない、産めないことを否定的なこととする見方、そしてさらには、男が女に転換する、女が男に転換することをみとめないとする見方、こういった言い方や見方がこれまで繰り返し出されてきているが、これは創世記の原初史物語の「神は人を男と女とに創造した」から「人に関する定義なるもの」をそれぞれが恣意的に引き出したところから生じたものと言ってよい。わたくしの考えるところ、これは原意を間違った方向にもっていっているものであり、無くしてゆくべきとおもう。

 

 

さて、原初史物語の作者は、神は生きものに対する支配を人に委ねたと語っている。このことについて考えてみたい。

このことは、これをしるした後に述べられた1章29と30節の記述から読み考えるのがよいとおもわれる。次にそれを検討することにする。