マルコの福音書から(12) 4章1~9 〈多くの収穫〉
種を蒔く人が畑に種を蒔いた。種の中に畑ではない所に蒔かれたものがあった。ある種は道端に、ある種は石だらけで土の少ない所に、ある種は茨の生えている所に。これらの種は単数形であるから、3粒がムダになったということになる。
これ以外の種は耕された畑に蒔かれた。この種はあるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍の収穫になった。この種は複数形であるから、蒔かれた種は多くの収穫を得ることになったということになる。
この「譬え話」はムダになったのはたったの3粒、その他の種はすべて収穫に至ったという話しである。この「譬え話」には楽観的な調子が溢れている。この「譬え話」は聞いた者たちが日常でいつもしている体験。イエスは皆が知っていることを語った。この楽観的調子の溢れる「譬え話」を語ったイエスの意図は明らかであろう。人々に楽観的に生きることを勧めることにあったであろう。
この福音書の著者の得ているイエス伝承は、「種を蒔く」を「神の国を宣べ伝える」ことの比喩としてイエスは用いたとしている。そして、伝承は、イエスが宣べ伝える神の国が多くの収穫を得るに至るという楽観的見通しをイエスご自身持っていたとしている
この福音書に証言されているガリラヤにおけるイエスの活動はイエスが宣べ伝える神の国の生命力の強さを示している。この福音書に証言されているイエスは宣べ伝える神の国の生命力について明るい見通しを持っており悲観的見通しは皆無であると結論することができる。きょうの福音書物語に記されている「種まきの譬え話」はそれを象徴するものと言ってよい。
ガリラヤにおいてイエスと出会った人々はこのイエスに出会った。すなわち、神の国の生命力に溢れて活動するイエスに出会った。この人々にとってこのイエスがイエスのすべてであった。ガリラヤにおいてイエスと出会った人々はイエスの宣べ伝える神の国の使信が多くの収穫を得るに至っていることを体験した人々であった。
この人々は後にエレサレムで起こったことを知ることになる。イエスが十字架刑にて抹殺されたことを知ることになる。この人々にとってこのエルサレムでのことはもちろん悲しむべきことであり、憤らざるを得ないことである。しかし、このエルサレムでのイエス抹殺の事件がこの人々を失意落胆に至らしめるものになったかと言えば、そうではなかったのではないか。この人々はイエスが抹殺された状況の中で決して悲観的にならず、むしろ楽観的に、きょうの「種まきの譬え話」において示されている楽観的生き方を勧めるイエスの教えを想起しつつ、イエスの宣べ伝えた神の国の使信を具体化して行った。わたくしはこう推量している。
ところで、しかし、この福音書の記述の後半はこの前半とはかなり違うものになっている。すなわち、福音書の後半の記述は前半の基調である「多くの収穫」の見通しとはまるで違うものになっている、その逆の様相をさえ示すものとなっている。神の国を宣べ伝えたイエスは十字架刑に処せられ、イエスの弟子たちはイエスを放棄して逃亡する。このように描くこの福音書の後半の記述はイエスの宣べ伝えた神の国が多くの収穫に至るどころではない、むしろ惨めな結末となっている。この後半の記述に記されていることは「挫折」であり「意気消沈」であり「失意落胆」である。福音書著者はこの福音書後半の記述を提示する。これは一体なにゆえであるか。これが福音書著者への読者が出さざるを得ない問いである。
ここで最初期キリスト教の伝道者パウロを参照することにする。
パウロはコリントにある教会に宛てた書簡にこう記した、
「十字架の言葉はわたしたち救われる者には神の力です。」
このパウロの言葉には彼の宣教において最重要とすることが示されている。
パウロは律法を守ることによって義を獲得する道を歩んでいた。彼の念頭を離れなかったことは、どうしたら誇り得る自分になることができるかであった。彼は律法を守って誇り得る自分になることに成功した。しかし、そこで問題が発生した。その問題とはこういうことであった。
パウロは律法を守り切ったとき、こういう自分になることを抑えることができなくなった。すなわち、自分を誇る。彼はこれへとのめり込むことになった。自分を誇ることの行き着く先は何であるか。それは「自分を神の位置に押し上げる」であった。端的に言えば「自己神化」であった。この結末は律法が禁じる最大の罪であった。これは律法遵守の道に生じる悪しき循環であった。すなわち律法を守れば守るほど律法に反することになるという悪しき循環であった。パウロはこの悪しき循環に呑み込まれ、この悪しき循環の外に出ることができない者になっていた。このパウロが「十字架の言」を聴くことになる。
パウロはこの聴聞において不思議な経験をするに至る。彼はイエス・キリストの十字架死の使信を聴いてこれまでの自分が砕かれるという経験をする。誇り得る自分になることだけを求めていた自分が壊されるという経験をすることになる。これは「不思議な」という以外に言いようのないことであった。
彼がこの「壊される」「砕かれる」を自分の実存において深く経験するのは、彼がキリスト教に入信した後においてであった。その事情はこうであった。彼には持病があった。それが何であるか分からない。彼はそれに苦しんでいた。軽くなかった、重かったようである。彼はその持病が取り除かれるように神に祈った、「わたしの身にとげがある。『これを取り除きたまえ』と、わたしは三度主に懇願した。彼がその果てに聞いたことはこうであった。「主はわたしに言われた。『我が恵みはあなたにとって十分である。力は弱さにおいて完成する。』」こうしてパウロは持病に苦しむ中で「神の力は弱さにおいて完成する」を自分の実存において深めることとなった。
パウロは宣教する。イエスの十字架死、これはイエスが無力であったことを意味する以外のなにものでもない。しかし、このイエスの無力の中に律法義認の行き着く先の「自分を神の位置に押し上げる」自己神化の罪の縛りからの解放が起こる。イエスの無力の中にこそ「多くの収穫」が隠されている。これがパウロの宣教であった。これが彼の宣教の最重要とすることであった。
ここで福音書に帰る。
さきほどすでに紹介したように、この福音書の後半の記述はイエスの神の国宣教の結末が「挫折」に終わったとしか言いようのないものであった。いまいちど、そのことをペトロに注目することによって確認しておきたい。
ペトロはイエスについてゆくが最終にはイエスについてゆくことはできず「イエスのことは知らない」としてイエスを捨てた。その時ペトロは「呪の言葉さえ口にした」。ペトロが「イエスのことは知らない」と言った時どんな呪の言葉であったのか。「イエスのことは知らない」と言った自分の言葉に嘘があるなら自分は神に呪われてよいとまで言ったのかもしれない。ここに描かれているペトロの姿は「挫折」以外の何ものでもないと言わざるをえない。
ペトロはこの直前にこう言っている、「わたしたちは何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」実際彼はその人生をすべて賭けてイエスに従い、持てるもの全てをささげてイエスに従った。また彼はこう断言した、「たとえ一緒に死なねばならないことになっても、あなたのことを『知らない』などとは決して申しません。」ペトロはイエスと共に死ぬ、そこまでの覚悟はしていたのであり、その覚悟に嘘偽りはなかった。しかし、ペトロは最終のところでイエスとの関わりのあったことさえ否定した。ここに描かれているペトロの姿は「挫折」以外の何ものでもないと言わざるをえない。
この福音書はこの後、ペトロを描いていない。ペトロはこの後この福音書に登場することはない。この福音書ではペトロは挫折のまま舞台から降り、再び登場することはない。この福音書はペトロこの中心人物の最終が挫折であったと描き、その挫折したペトロを描くことをもってこの人物の描写を終えている。
この福音書の描写はイエスの神の国宣教の働きが多くの収穫を得るどころかむしろ負債を抱え込んだ惨憺たる結果であったと物語っている、と読者は読まざるを得ない。ここで読者としてはさきほど提出した問いをいまいちど改めて出さざるを得ない。すなわち、多くの収穫に至ると語るイエスを描く福音書前半と福音書後半のこの惨憺たる結果を描くこれとの関係はどのように解すればよいのか、福音書著者はこれをどう考えているのか。著者がこのように描く意図動機は一体何か。
ここで、わたくしの推量を述べるとこうなる。
このマルコ福音書はパウロの宣教を承知していたのではないか。すなわち、「イエスの無力の中に『多くの収穫』が隠されている」、この逆説の真理を承知していたのではないか。しかし、この福音書はこのパウロの宣教の逆説の真理をそのまま述べてはいないように思われる。この福音書は独自の道を提示しているように思われる。それは何であるか。
このマルコ福音書の結びに復活のイエスその方の登場はない。他の福音書ではいずれも復活のイエスその方が登場しており、イエスの弟子たちはそれまでの自分たちの負ったイエスに対する負い目の全てが赦され帳消しになり、復活のイエスから生命の力を与えられる、つまり「多くの収穫」が与えられる、それが結びとなっている。これに対してこのマルコ福音書にはそれがない。この福音書の結びにあるのは天使の告知の「復活のイエスに会いたいのであればガリラヤへ行け」である。ここでわたくしの理解を言うとこうなる。
この福音書の著者は、挫折した者たちを改めてガリラヤに向かわせようとする。そこには、かつてのイエスは存在していない、が、霊のイエスがいます。この福音書の著者は挫折した者たちを、その中にはあれほど徹底的に挫折したペトロをも含めて、その挫折した者たちをガリラヤに向かわせようとする。この福音書の著者はそのガリラヤにていまいちど「ガリラヤ体験」をすることへと向かわせようとする。この福音書の著者は、霊のイエスのもとで新たに「多くの収穫」に与る体験をすることへと向かわせようとする。この福音書の著者はこのことを天使の告知「ガリラヤへ行け」に託して語ったのだと思う。
この福音書著者の語りは新約聖書の中で独自のもの、独自の道を提示していると、わたくしには思われる。