マルコの福音書から(13) 4章13~20 〈岐路〉
きょうの物語には受け入れた神の言葉を保ってゆくことができなくなる場合が三つ記されている。
その三つを確認すると、
受け入れた神の言葉をサタンが来て奪ってゆく場合、
受け入れた神の言葉のゆえに迫害に遭い神の言葉を保ってゆくことができない場合、
経済的に豊かになることによって神の言葉を保ってゆく必要がなくなるという場合。
きょうの物語が扱っている三つには共通点がある。それは事情によっては神の言葉を保ってゆくことをしないようになるということが起こるということ。きょうの物語はこの問題を扱っていると思われる。きょうの物語にはこの福音書の共同体に起こっている事情が映し出されていると言ってよいだろう。そして、ここで扱われていることは当時のキリスト教共同体の全てに起こっていた問題であったと推量される。
ここでもこの問題を考えるに当って旧約聖書を参照したい。
旧約聖書はイスラエルの民がモーセの時以来向き合ってきた神との関係を失うに至る関係破綻の危機をたびたび記しているが、その危機の最大の歴史の局面はユダ王国が滅亡しバビロン捕囚が起こった時であったとしていると言ってよいと思う。
イスラエルとはモーセを介しての神による救済を通して成立した民であった。この民はそれゆえその時以来、自分たちが危うい局面に遭遇した時、神に助けを求めることをもってこの民のありようとして歩んで来た。そして、この民は神の遣わす人物を介して必要な助けを神から与えられて歩んで来た。イスラエルの民はこれを基本線として神との関わりを続けて来たのであった。しかし、ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚はこの基本線を消滅せしめたと言わなくてはならない事態であった。
この事態はイスラエルの民が神に助けを求めても神が必要な助けを与えるということは起こり得ないとするほかない事態であった。ユダ王国滅亡とバビロン捕囚はイスラエルの民と神との関係の完全破滅と言っても言い過ぎではない事態であった。エルサレム神殿は瓦礫と化し、エルサレムからバビロンへの捕囚民は相当の数、ユダ王は両眼をえぐられたうえで捕囚となり、エルサレムにおいて指導的立場にあった者たちは根こそぎ捕囚となった。この事態の中ではイスラエルの民が神に助けを求め神が助けを与えるという形において保たれてきたイスラエルと神との関わりの基本線は事実上続けることはできなくなった。
さて、ここで考えなければならないことがある。この事態はイスラエルの民にこれまでに直面したことのない問題を生じさせた。その問題とはイスラエルの民はモーセ以来向き合ってきた神との関わりをこれからは「しないでいい」という問題であった。
この「しないでいい」という新たに生じた状況はイスラエルの民に新たな問題を生じさせた。その新たな問題とは「しないでいい」を実際に行った場合、自分を何処に置いたらよいか分からなくなるという問題である。この問題はイスラエルの民にとってこれまでに直面したことのない新たな問題であった。
イスラエルの民はこれまでは神との関わりにある民であるという枠組の中で自分の場を見出して来たのであるが、ここに至って神との関わりをしないでいいということになることによってこの民は自分を置く場を失い流浪の中を漂う、そういった状況に置かれることになった。
この問題と真正面から取り組んでいるのは『ヨブ記』である、とわたくしは考えている。わたくしの考えているところはこうである。
『ヨブ記』の舞台設定はこうである。ヨブは重篤な病に陥る。ヨブは神に問う、自分はなにゆえ病に陥らなければならないのか。しかし、神からの答えはない。ヨブ記はそのようにして進行してゆく。これは何を意味しているであろうか。このままでゆけば今までイスラエルの民が前提としてきた神と人間の関係の基本線が消滅するという問題、これが起こることになるのではないか。すなわち、人間が助けを求め神が助けを与えるという神と人間の関係の基本線が消滅することになるのではないか。わたくしは『ヨブ記』の提示していることはこれであると読む。
『ヨブ記』のヨブの苦悩はこういうことであった、と、わたくしは理解する。すなわち、人が助けを求めて助けてくれない神にいつまで関わり合うべきなのか、この神との関係を放棄してよいのではないか、しかし、放棄した場合自分は何処に身を置けばよいのかそれが不明となる、不明となった後に待っているのは自由と引き換えに生じる虚無であるが、それに対応する主体は自分にあるのか。わたくしの理解するヨブの苦悩はこれである。
ここで、この福音書4章に記されている物語に立ち帰る。
物語は、神の言葉を受け入れたけれどもそれが迫害の原因となるとそれを捨てるということがある、また、経済的な豊かさの中で神の言葉を保持する必然が消滅したとなるとそれを捨てるということがある、と述べている。この福音書物語が提示していることは、わたくしの理解では『ヨブ記』が提示していることと重なる。『ヨブ記』のヨブが陥っている重篤な病の状況と福音書の共同体が直面している状況とは異なる。が、取り組まれている問題は共通している、と、わたくしには思われる。
ここで『ヨブ記』のヨブにこの福音書の4章を読んでもらうことにする。おそらくヨブはこう言うのではないか。
受け入れた神の言葉を捨てることになる事情は人生において生じる。自分の場合は重篤な病におちいり、神に助けを求めたけれども得られず神との関わりを捨てる十分な理由が自分の人生において生じた。自分はその時点で神との関わりを捨てる十分な理由があったので捨ててよかった。しかし、捨てた後自分は何処に身を置くのかその問題で苦しんだ。ヨブはここで問うのではないか。この福音書の四章に記されている神の言葉を捨てる人の場合、それによって得られる自由と引き換えに虚無が生じるが、それと向き合う主体は形成されているのか、それが問題である、これを問いたい。
わたくしは、この福音書4章において取り組まれている問題を今日の言葉で言えば、こういうことではないかと考えている。すなわち神の言葉を捨てるということがあり得るというこの問題は要するに「世俗化」が浸透する中での教会人のありようの問題であると言ってよいと、わたくしは考える。
きょうの物語で福音書著者が読者に提示している問題事項は今日の言葉で言えば、世俗化が浸透し、そこで生じる自由の空気が合理主義を生み出し、その中で合理主義のもたらす自由を獲得するがそれと引き換えに「アイデンテイテイ(自己同一性)」を喪失させるという事態が生じる、こういうことではないかと、わたくしは福音書著者の意図をこう読む。
わたくしは以前こういう質問を受けたことがある。
「なぜ神が必要なのですか。」
この質問はキリスト教主義学校の高校生が聖書の科目で夏休みの宿題になったもの。それをリポートしなければならないので、この問題について参考になることを聞きたいということであった。この質問にわたくしはこう答えた。
この質問はこの質問それ自体が聖書において成り立つ質問であるかどうかを考えることから始めるほうがよい。この問題は二つの面から考えてみるとよい。
一つは人間が神を必要としているのは多くの場合困っている時であるが、もし困ることがなくなれば神は必要ではなくなり「なぜ神が必要なのか」という質問は消えるし生まれない。今は自力でできる。以前は神を必要としていたとしても今は必要ない。神との関わりは棚上げするか、もしくは捨てることになる。世の中は自分にとって必要であるかないかで進んでいる。神についても必要か必要でないかという次元で扱われてゆく。しかし、神をその次元で扱ってよいか。神もまた場合によっては使い捨てることがあり得る、そういう問題かどうか考えてみたい。
いま一つは聖書に登場する神は神を必要としている人にも必要としていない人にも現れてくる神であるが、この聖書の神について考えてみたい。聖書の神は一人称単数で、神のほうから「わたしはあなたに言う」と一方的に話しかけてくる神である。この神は神を必要としないと言っている人に対しても「あなたはわたしを必要としないと言っているけれども、わたしのほうはあなたを必要としている」と語りかけてくる神である。聖書では人間が神を必要としているかどうかよりも神が人間を必要として求めてくる。この聖書の神について考えてみたい。
きょうの福音書の4章に記されている物語は神の言葉を必要としなくなればこれを捨てるということがあり得るとする問題と取り組んでいる。この問題は人が自分にとって神は必要かどうかという立場に立っているゆえに生じる。その立場でゆけば、神の言葉を「使い捨てる」ということが生じる。そして、神を使い捨てる、人を使い捨てる、あらゆる物を使い捨てるということが生じる。これは合理主義の立場であり、合理主義のもたらす自由である。
きょうの福音書4章の物語を記した福音書共同体は「世俗化」の波に呑み込まれかねない状況にあったのではないか。「世俗化」とは合理主義のもたらす自由が「使い捨て」という社会風潮を醸成する。福音書共同体はこの波に呑み込まれてしまいかねない状況下で、何に立つか、何にこだわるか、その岐路に立っていたのではないか。
わたしたちの人生において教会生活と呼んでいるそれを中座するに十分な理由が生じることがある。その時わたしたちは岐路に立つことになる。その時わたしたちは何に立つか、何にこだわるか、それが問われることになる。