マルコの福音書から(14)4章35~41 〈向こう岸へ渡ろう〉
物語はイエスが風を静める物語。
「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。」
弟子たちはおどろく、
「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか。」
イエスは弟子たちに言われた、
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」
弟子たちは風を静めるイエスを見て想起しなければならないことがあった。それは出エジプト記にある物語。
ヘブライ人たちは苦役のエジプトを脱出するに当たり海を渡らなければならなかった。その海は沼地の湖であったようである。追ってきたエジプトの軍隊によってヘブライ人たちは全員死滅するほかないその時、モーセは神の力によって風をもって海の水を押し上げ、ヘブライ人たちは水のない乾いた地を歩き、この絶体絶命の難を逃れることができた。
詩篇には出エジプトについて記す詩がいくつもあるが、この風と海を治めた、これが神の働きによってであったと歌っている詩編がある。
詩篇107
「神ヤハウエは嵐に働きかけて沈黙させられたので、波はおさまった。」
詩篇106
「葦の海は神ヤハウエに叱られて干上がり、彼らは荒れ野を行くように深い淵を通った。」
興味深いことだが、この出エジプトに関する詩編の言葉がマルコ福音書四章に記されている「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。」と重なる。イエスはここで詩篇の言葉を語っている。かつてヘブライ人たちが苦役のエジプトから逃れるべく海を渡る時モーセを介して神ヤハウエがなさったと歌う詩篇の言葉を語っている。
きょうのマルコ福音書のイエスが風を治める物語は、第二の新しい出エジプト物語という位置づけになるのではないか。きょうの福音書物語はイエスが弟子たちに出エジプト体験をさせた物語であると読むことができるのではないか。
物語の始まりはこう記されている、
「その日の夕方になってイエスは『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。」
物語は、向こう岸に渡るのが夜という時間帯、陸路ではなく海路であるとしている。この物語描写はかつてモーセがイスラエルの民に対し迫り来るエジプト軍から逃げるため「この海を渡ろう。渡って荒れ野に出て行こう。」と呼びかけたあの場面を想起させる。出エジプト記14章に描かれている、ヘブライ人が海を渡った時間帯は夜であった。それゆえ「その日の夕方になって」という言葉はマルコ福音書の著者の意図としては、これから出エジプトの体験が始まるということを告げようとしていると解してよいのではないか。
この物語で最も重要となるのは、弟子たちのおどろきの声の中に言い表されていることであると思われる。
「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか。」
詩篇では神ヤハウエが風を治めたが、マルコ福音書ではイエスが風を治めている。つまり、弟子たちの「いったい、この方はどなたなのだろう」に対する解答は、この福音書によれば、それはすなわち「イエスは神ヤハウエの代理者にほかならない」、と、そういうことになる。
物語によれば、イエスの呼びかけに応え向こう岸に渡る弟子たちに激しい突風と荒波が襲った。その時、イエスは眠っていた。激しい突風が起こり、荒波が襲う中でイエスは眠っている。イエスにとって激しい突風が起こり、荒波が襲うということは右往左往しなければならない事態ではない。弟子たちはあわてふためく。彼らはこの事態を生存の途絶危機と恐れた。イエスはこの事態を生存の途絶危機とはしていない。イエスは冷静に状況判断しておられる。
弟子たちの中にはガリラヤの海にて漁を仕事としていた者がいた。この者たちはガリラヤの海のことは知っていると自負していたことであろう。だが、その道の専門を自負する者たちにとって想定外のことが生じる。これをこの福音書は描く。そしてさらに、その道の専門を自負した者に想定外のことが起こった時、その自負していた専門知識・体験は何ら役に立たない、これもこの福音書は描く。
福音書物語はさらにこう描いている。
想定外のことに直面した弟子たちはこの時こう言った、「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。この弟子たちの言葉は彼らの自負心が言わしめた言葉であると言ってよい。彼らは主張する、自分たちは大切な存在であり、なくてはならない存在であるから、自分たちには安全が保障され、危ういことから守られ、安定が確保されてしかるべきである。
ここと同じ問題が扱われているのが福音書の後半にある、弟子の二人が自分たちに指導者の地位を保障するようイエスに願い出る物語である。扱われている問題は弟子たちの中に生じる安定志向・上昇志向という問題である。これがイエスの共同体を腐敗させる原因となる。
イエスは弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われた。この呼びかけは「出エジプト」の追体験への招きであった。この呼びかけに応じた弟子たちがまず知ったことは自分たちがいかに安定志向・上昇志向の者たちであるかということであった。「出エジプト」とは「出る」ことであるが、弟子たちにとって「出る」とはこの安定志向・上昇志向から「出る」こと。イエスはこの「出る」を弟子たちが自ら学ぶために、弟子たちを「出エジプト」の追体験へと招いた。これがきょうの福音書物語で語られていることであると言ってよいのではないかと思う。
この福音書の著者は主題のイエス・キリストの福音を語るその初めにバプテスマのヨハネの活動を記した。そのヨハネは人々を荒れ野へと連れ出し、「出エジプト」の追体験をすることへと連れ出した。これは人々の中に醸成された安定志向・上昇志向を清算させるためであった。
きょうの物語の結びは、イエスが弟子たちに激しい語調で語る場面となっている。
イエスは言われた、
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
イエスは嵐の中であわてふためく弟子たちに「怖がるな」と言われた。イエスが言われた「怖がるな」とは「状況を怖がるな」ということであった。ここで弟子たちは状況しか見ておらず、状況を怖がっている。弟子たちはここでその「嵐の状況」に気が取られ、イエスが共にいることを忘れている。いや、イエスが共にいることは知っている、忘れているわけではない。ただ、弟子たちはイエスを「向こう岸へ渡る」ことを可能にする方であるということについては信じていない。
きょうの物語の結びに記されているのは、弟子たちのおどろきの声。
「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか。」
弟子たちのこのおどろきの声、これは弟子たちが詩篇の詩人の歌を想起していないことを示している。詩篇の詩人は風を治めたのは神ヤハウエであったと歌っている。その神ヤハウエの為されたことをイエスは為された、弟子たちはこのことに全く思い及んでいない。弟子たちはこの段階では、かつて神ヤハウエが成就せしめた出エジプト、それを全く新たに起こす、それがイエスであるということ、このことに思い及んでいない。きょうのこの物語はイエスが誰であり何を為される方であるかについて、すなわち「キリスト論」に言い及ぶ物語であると言ってよいだろう。
今日この国は「出る」ではなく「回帰する」ことへと急傾斜している。「日本を取り戻そう」と呼びかけ政府政権を取った政権党の提示した憲法案は「日本を取り戻そう」のその「日本」とは「大日本帝国憲法の下の日本」であると、そう読むほかない。この国は六九年前敗戦を機に、「富国強兵」から「平和と信義」へと「出た」のであった。しかしこの国は今日「富国強兵」へと回帰しようとしている。この回帰現象は実は「出る」をしなかったことに原因がある。今日のこの国の回帰現象を止めるにはこの点からの検証が必要であると思われる。
このことはわたしたちの教団についても言い得る。教団は敗戦前の教会を後にし、そこを「出」ることを課題としてきた。しかし今や敗戦前の教会に回帰する方向に向かい始めていると思われてならない。教団のこの回帰現象は実は「出る」をしていなかったことに原因がある。わたしたちはこの点の検証を行って来たのであるが、今日改めて行う必要に迫られている。
きょうの福音書物語にあるイエスの言葉「向こう岸へ渡ろう」は、今日のこの事情のゆえに、緊急性をもってわたしたちに迫る招きの言葉である、と思う。