マルコ福音書から(1) 1章1~8 〈ゼロ体験〉
わたくしは洗礼を受けキリスト教徒になり五〇年、その間、聖書を読んできたが、このあたりでいまいちどあらためて虚心坦懐に読み直してみようと考え、まずはマルコ福音書から始めてみることにした。きょうはその最初の物語に向き合うことにする
この福音書の最初の言葉は「神の子イエス・キリストの福音の初め」。これはこの福音書の主題であると言ってよい。
ここで興味深いことは、この主題に一つの言葉が加えられていること。それは「初め」という言葉。この福音書の著者はこの主題を書くに当たり、初めに置く物語があると考えた。
著者が初めに置く物語としたのはバプテスマのヨハネの活動を記した物語。
ここで問いが生じる、なにゆえこの物語が初めに置かれたのか。
この問いの答えを得るためには、初めに置かれたこの物語が何を語っているかを探らなければならない。
ここを読んで気付くことは、バプテスマのヨハネの活動の場所が「荒れ野」であったということに強調点が置かれていること。
まず「荒れ野で叫ぶ者の声」とあり、その後「バプテスマのヨハネが荒れ野に現れた」とある。そして、ヨハネが身に着けていた物と食べていた物が詳しく記されている。「いなごと野蜜を食べていた」、これは荒れ野の食べ物であることを示している。「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締めていた」、これは預言者エリヤを彷彿させる。エリヤは荒れ野から現れた人であった。このようにバプテスマのヨハネが荒れ野の人であったことが強調される。
ここでヨハネの活動の場所についてさらにこう記されている。
「ヨルダン川」であった。
ヨルダン川が活動の場所であった理由は何か。
説明としてヨハネの運動がバプテスマ運動であったゆえ水のある所が活動の場所となったとするものが多いが、この説明では済まないように思われる。
旧約聖書の申命記にこんなことが記されている。
荒れ野での長い旅を重ね、ようやくヨルダン川にまで辿りついた人がいる。この人はヨルダン川手前でピスガ山に登った。そしてヨルダン川の向こうにある地を眺めた。
このときこの人は神に願った、「どうかわたしにも渡って行かせてください。」しかし、神はこの願いを認めなかった。神がこの時この人に言われたことは、「あなたはここで生涯を終えなければならない。」この人とはモーセ。彼は荒れ野の人として生き、荒れ野の人としてその生涯を終わる。
この申命記の記述は何を意味しているか。
この申命記の後、ヨシュア記が始まる。
モーセの後、ヨシュアが指導者となり、出エジプトした民はヨルダン川を渡り、その
先にある地に入り、土地の取得に至る。ヨシュア記の最終章には土地の分配が記されている。
旧約聖書はモーセとヨシュアの間に一つの転換点があったとしている。それは荒れ野を歩む民が土地を取得する民になるという転換点。
この転換点は民の生き方に変化をもたらした。変化は時間を経てゆく中で確実に起こってゆく。この民は荒れ野での生活においては最小限の物を持つ生活であったが、土地取得の後はそれなりの物を持つ生活となる。結果として生き方に変化が生じた。
その変化をひとことで言うと、「目標を目指して歩む」というよりも「自分の持ち物や自分の立場を守る」という生き方に、「歩む」ではなく「守る」に変わった。
この変化の転換点となった場所がヨルダン川であった。
ヨルダン川はこの民にとって決定的な意味をもつ場所となった。
ここでわたくしの理解を言うと、
バプテスマのヨハネは自分の立ち位置をヨルダン川の向こうの地すなわち「荒れ野」に置いたということではないか。ヨハネはイスラエル宗教の本来のものが「荒れ野」にあったとみて、ヨハネはそこへと人々を連れ出す運動を始めたということではなかったか。
ここにはヨハネの運動に引き寄せられ参加した人々が誰であったか記されている。「ユダヤの全地方とエルサレムの住民」すなわち「ユダヤ教徒たち」。
ここで、彼らの自意識を問うておきたい。
彼らの自意識は次のように言ってよいかと思う。
自分たちは神の選んだ民。自分たちは神の心を知っている民。自分たちはこの意味において特別の存在である。
わたくしの理解では、ヨハネはユダヤ教徒たちがこの自意識を保持することを認めなかった、その自意識を捨てさせた。つまり、ヨハネのバプテスマ運動とはこの自意識を捨てさせる運動であった。
ほかの福音書に、ヨハネの次のような言葉がある。
「『われわれの父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」
このヨハネの言葉が意味していることは、ユダヤ教徒たちに「アブラハム伝承」を捨てさせ、その伝統のもとにあるとする自意識を捨てさせたということではないか。わたくしの理解では、このヨハネのバプテスマ運動とは「ゼロ体験」へと連れ出す運動、持っているものを「守る」ことに重きを置くことから、むしろそれを捨て身軽になって「歩む」ことへと連れ出す運動。
ところで、旧約聖書の記すところによると、
この民は「ゼロ体験」をなんどもせざるを得なかった民であった。
この民はその成立の出エジプトのとき、すべてのものをエジプトに残してこざるを得ず「ゼロ体験」をせざるを得なかった。この民はさらにバビロン捕囚において「ゼロ体験」をせざるを得なかった。
福音書著者は旧約聖書イザヤ書の言葉を引用する。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野
で叫ぶ声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
著者はこの引用によって何を言おうとしているのだろうか。
ここに引用されたイザヤ書の言葉は預言者が呼びかけている言葉。いかなる呼びかけか。それはバビロンからエルサレムに帰る、それを呼びかけている。
この呼びかけに応えバビロンからエルサレムに帰るということは何を意味するか。それはバビロンにおいて得ているものを置いてゆく、捨ててゆくことを意味する。つまり、この預言者の言葉は民に「ゼロ体験」をするよううながす言葉であったのである。
福音書著者はこの預言者の言葉でバプテスマのヨハネの活動を説明している。ヨハネのバプテスマ運動をバビロンからエルサレムに帰ることを呼びかけている預言者の言葉で説明している。つまり、福音書著者はヨハネのバプテスマ運動とは「ゼロ体験」をうながすものであったと説明した。
古代オリエント世界の覇権をペルシャ帝国が掌握。この帝国は捕囚民となった諸民族にそれぞれの所に帰る自由を与えた。ユダ王国からの捕囚民たちもこの機会を解放の時として歓迎。しかし、帰ることを呼びかけたけれども、これに応じる者は多くはなく、
いやむしろ少なかった。
バビロンに捕囚民となって半世紀。捕囚の身であるからして自由は制限されている。しかし、バビロンは大都市、様々な利便性があり、それなりの快適な生活があったのではないか。つまり、バビロンからエルサレムに帰るということ、これは大都市で得ているそれなりの快適な生活を捨てなければならない、つまり「ゼロ」になるということ。
この民は半世紀前、ユダ王国滅亡とバビロン捕囚を経験した、いわば「ゼロ体験」をしたばかりである。また「ゼロ体験」をするのか、逡巡せざるを得なかったのではないか。バビロンを去りエルサレムへ帰る、このうながしを預言者から強く受けてなお逡巡し、預言者の呼びかけに応じる者多くなく、いやむしろ少なかったということ、これはこの民が「ゼロ体験」に伴う過酷を知りぬいていたからであった、と言ってよいのではないか。
この民は荒れ野の四〇年を通して「ゼロ体験」に伴う辛苦に満ちた苦難の厳しい体験を骨の髄まで知った。この民はバビロン捕囚を通して「ゼロ体験」に伴う辛苦に満ちた厳しい苦難の体験を骨の髄まで知った。旧約聖書はこの民がこのようであったことをくりかえし語っている。
しかし、旧約聖書は「ゼロ体験」に過酷が同伴することを知っており、それを語っているわけであるが、旧約聖書はそれだけを言っているわけではない。旧約聖書は「ゼロ体験」から「新しい事」が起こるということ、「守る」から「歩む」への転換が起こるということ、これを語っている。
この国日本は六六年前、わたくしは四歳であったが、「ゼロ体験」を強いられた。わたくしはあの戦争敗戦の末期、防空壕に避難した後帰ってきたら、住んでいた家が全焼していた。「ゼロ体験」は辛苦の体験である。この辛苦の体験の「ゼロ体験」から人生を始めるほかなかったわたくしが「ゼロ体験」を強いる状況を来らせないことを自分の人生の課題としたことは当然のことであった。
この国は、今日、二〇一一年三月一一日以来、その辛苦の「ゼロ体験」を六六年前とは別の仕方において強いられている状況にある。その辛苦の「ゼロ体験」の渦中にある方々に思いを寄せつつ、「ゼロ体験」を強いる状況を来らせないようにすることを共なる課題としてゆこうと心定めている。
ところで、しかし、わたしたちの人生において「ゼロ体験」から始めなければならないことが現実として起こるときがある。そのとき、わたしたちの課題は今申した通り「ゼロ体験」の起因を分析しこれを克服するための取り組みをしてゆくことにある。が、このとき、わたしたちに委託されている課題がいまひとつある。
聖書は「ゼロ体験」から「新しい事」が起こる、「守る」から「歩む」への転換が起こる、これを語っている。わたしたちに委託されている課題はこの聖書の使信を証しすること、これがある。これはしかし尋常なことではできない。
マルコ福音書の著者は主題のイエス・キリストのことを記すに当たってその初めに、荒れ野にてゼロ体験をさせる、すなわち「守る」ことから「歩む」ことへ転換させるヨハネのバプテスマ運動物語を置いた。この福音書著者の編集には意図がこめられているのではないか。すなわち、ヨハネの後に登場するナザレのイエスはヨハネの示した「ゼロ体験」「守るから歩むへ」をもたらすキリスト。著者はその本論の序言をここに記したというしだいではないか。
さて、きょうの物語の結びのところに記されている、いわば物語の結論として出されていると思われるところ、それについて考えてみることにする。
バプテスマのヨハネは語る、「わたしよりも優れた方が、後から来られる。」その優れた方が何をされるか、「聖霊でバプテスマを授ける」、と。
では、「聖霊によるバプテスマ」で何が起きるのか。
「バプテスマ」という言葉の意味は「水に沈めて死にいたらしめる」、つまり、「ゼロにする」。わたしたちは「水のバプテスマ」を受けたとき「ゼロになる」をしたことになる。しかし、この「ゼロになる」が「水のバプテスマ」で起こることを信じそれを願うのではあるが、そうはいかないということをわたくしは実感している。パウロの言葉によって言うと「古き我」は死なず「新しき我」が生まれない、この世の律法の価値観に縛られたままが続いている。つまり「水のバプテスマ」では「ゼロ」にはなり得ない、わたくしはこれを実感している。
この現実情況についてパウロは承知していた。それゆえ彼は次のように語る。「古き我」が死んで「新しき我」が生まれる、この世の律法の価値観に縛られた者がこれから解放される、つまり「本当のゼロ体験」を得る、それは「イエス・キリストの霊」によらなければならない、と。
わたくしはこの問題を扱っている所が新約聖書の中にさらにないか探してみた。
ヨハネ福音書の三章にそれがある。
そこにはイエスとニコデモという人物との対話が記され、そこで展開している対話のテーマは「人間が新しく生まれ変わる」、言い換えれば「ゼロ体験」ということ。
ニコデモは「自分のような年をとった者には、それはできない」と言った。
この「年をとった」の意味であるが、年齢がかさめばかさむほどこれまでの体験に自信を持ち新しくなるというのが難しくなる。しかし、ここはその意味ではない。
ニコデモが担っている立場、かれはユダヤ最高法院の議員であったが、かれはこのユ
ダヤ最高法院の議員の立場を捨ててゼロになることができるかということ。ニコデモは、できない、と答えた。
このニコデモの言うところはわからないわけではない。責任を持った者が簡単にその責任を放棄してよいわけではない。が、それをどうしても捨てられないという前提を置いた上では、「ゼロから始める」ということが求められる人生の局面に立ち至ったとき、その場から逃げるほかないであろう。逃げてよいと思うが、それでは問題は残ったままとなる。
イエスはこのニコデモに対し次のように言われた。
「あなたはできないと言う。しかし、霊から生まれるなら、できる。」
ニコデモはイエスに言う、「そんなことがあり得ましょうか。」
ニコデモは「守ることから歩むことへ」、その転換ができない。
福音書著者は物語の初めに「聖霊のバプテスマ」を授ける方について証言する者を登場させる。その後「ナザレのイエス」について物語る。
著者によれば、この「ナザレのイエス」こそ「聖霊のバプテスマ」を授ける方、「本当のゼロ体験」をさせる方、「守るから歩むへの転換」を起こす方。
しばらくのあいだ、この福音書証言を読んでゆくことにしたい。