マルコ福音書から(33)14章60~64 〈イエスはいかなる方であったか〉

2016年12月16日 14:22

 福音書には「イエスはいかなる方であったか」が語れている。福音書には何と語られているか。

 

福音書の読者としてこの問いの答に接近する方法の一つとして考えられるのは、イエスは十字架刑にて抹殺された、なにゆえそうされたか、その原因を考えることによって、イエスはいかなる方であったのかを知るという方法である。 

 

ユダヤ最高法院の法廷はイエスを有罪にした。その有罪理由は何であったか。

裁判長の大祭司は沈黙を続けているイエスに対しこう尋問した。

「お前は自分をメシアであるとするのか。」

 

イエスは答えた、「そうです。」

 

すると大祭司は言った「諸君は冒瀆の言葉を聞いた。」ここで大祭司はイエスを「神を冒瀆する罪を犯した」者と断定し、極刑が相当であるとした。

 

この福音書の二章にこういう物語が記されている。

 

イエスのもとに病む人が連れてこられた。イエスはこの者にこう言われた、「あなたの罪は赦される。」そこに律法学者がいた。彼らはイエスを「神を冒瀆する者」とした。罪を赦すことができるのは神のみであって、人が罪の赦しを宣言するとすれば、神の権威を侵すことであり、律法の定める罪の中で最も重い神を冒瀆する罪を犯すことになる。

 

 イエスはこの律法の定めを承知していた。罪の赦しを宣言すれば神の権威を侵す者とみなされ、重罰が避けられないことを。イエスはこれを承知のうえで自分のもとに連れて来られた病む者に「あなたの罪は赦される」と語った。イエスは過ぎ去った過去の負い目に苦しんでいる者にその負い目は赦されると語った。大祭司はこのイエスの振る舞いを情報として得ていたのかもしれない。

祭司は犯された罪の重荷を負う者に代わって神に執り成し、罪の赦しを神に願い、罪の負い目を神は赦したと告げる役目を担う者。大祭司はこの罪の赦しに関わる祭司の頂点に立つ者として、「わたしは罪を赦す権威を持っている」と宣言したイエスを、大祭司にのみ認められていた権威を侵したとし、極刑に相当するとしたのである。

 

 そうすると、ここでこういうことが言えてくることになるのではないか。イエスは「罪の赦しに関わる事」で抹殺された。わたしたちはこのことから「イエスがいかなる方であったのか」についての問いの答えの一つに接近することができるのではないかと思う。

 

ここで、この問題を少し異なる角度から考えてみることにしたい。

 

 最初期キリスト教のパウロはキリスト教をいかなるものとして伝えたかと言うと、それを一言で言えば、イエスの出来事は「罪人を義と認める」出来事であったとして伝えた、と言ってよいと思う。

 

 このパウロのキリスト教であるが、これはユダヤ教では受け入れることのできないものであった。ユダヤ教においては義と認められるのは義人であって罪人ではない。ユダヤ教が問題にしていたことは、義人が抑圧され、苦しめられ、殺されてさえいる、つまり、罪なき者が有罪とされている冤罪の問題であった。

 

 旧約聖書に登場する預言者たちが問題としていたこともこれであった。すなわち、義人が抑圧され、苦しめられている、この冤罪の問題であった。また、旧約聖書の詩編に登場する詩人たちが問題としていたこともこれであった。詩人たちが神に訴えていることは、義人が罪ある者とされている冤罪に関することであった。

 

 パウロのキリスト教が「罪人を義と認める」を内容とするものであったということは、ユダヤ教の教えに反するというだけでなく、預言者の言うところとも違っており、詩編の詩人たちの祈りとも違っていたということである。つまり、パウロのキリスト教はいずれの側からも同意を得られず、退けられるほかないものであった。

 

パウロのキリスト教が「義人の義を回復する」ということを内容とするものであれば、ユダヤ教に反するものではなく、預言者たちも言っていたことであり、詩編の詩人たちも祈っていたことであったのであり、反対を受けることはなかったのだが、パウロのキリスト教が「罪人を義と認める」を内容としていたために、いずれの側からも拒否され退けられた。

 

 この「罪人を義と認める」を内容とするパウロのキリスト教はローマ帝国の側からして承認することのできないものであった。ローマ帝国の側も義と認められる者は義人であって罪人ではない。パウロのキリスト教「罪人を義と認める」はローマ帝国の側からして拒否されるものであった。

 

ユダヤ教の側もローマ帝国の側も義を認めるのは義人である。両者がどういう者を義人と認めるかの違いはあるが、義と認められるのは義人である。したがって、パウロのキリスト教はいずれの側からも同意を得られず、退けられるほかないものであった。

 

このパウロのキリスト教であるが、これは福音書に伝えられているイエスのありようを極めて正確に要約したものとなっている。「罪人を義と認める」、これは福音書のイエスの全言動を要約するものになっていると言ってよい。

 

福音書の叙述を総括して言えば、こう言い得るのではないか。イエスはユダヤ教の側からもローマ帝国の側からも退けられ、十字架刑によって抹消された、その抹消の理由はイエスが「罪人を義と認める」をしたことによる。

 

 そうすると、ここでこういうことが言えてくるのではないか。すなわち、イエスが「罪人を義と認める」ことをしたゆえに十字架刑にて抹消されたということを確認するとき、わたしたちは「イエスがいかなる方であった」のかの問いの一つの答えに接近したことになる。

 

ここから先が重要なことになる。

 

イエスの行ったこと、すなわち「罪人を義と認める」、これを承認してゆくと、全ての者が義と認められる者となり、この世の中に罪人とみなされる者は一人もいないことになる。

 

この世の統治者はこのイエスを排除する。その排除の理由はこうである。義人とは誰であり、罪人は誰であるかを定めることによって社会の秩序は保たれる。この社会の秩序を崩す者は反社会的とみなす。

 

いかなる者を義人とし罪人とするかは、それぞれの社会の価値観によって異なるが、いずれにせよ社会は義人と罪人を分けることによって社会秩序を保つ。社会は義人を社会の内側に置き、罪人を社会の縁(へり)もしくは外側に置く。これで社会の秩序は成り立つとする。

 

ここで考えなければならないことがある。

 

この社会のありようは当然のこととして認められ、これに対し何の疑いもかけられず、社会通念としてまかり通っている。しかし、この社会のありようには問題があると、わたくしは考える。なぜそう考えるかと言えば、この社会のありようには次のことが生じているからである。すなわち、この社会のありようには「同化と排除」生じている。

 

義人と罪人を分け、前者を社会内に、後者を社会外に置くこの社会のありようは、わたくしのみるところ、「同化と排除」を当然のこととして繰り返す社会となっている。

わたくしは、社会を「同化と排除」の観点から分析すると、社会の問題が浮き彫りになると考える。

 

 イエスは罪人とみなされていた者を義と認めた。これでゆくと排除される者は一人もいなくなる。罪人とみなされる者がいなくなれば、皆が義人ということになる。そうすると、社会の義人罪人に関する秩序基準は意味を失う。そうすると、この社会に生じていた「同化と排除」は起こらなくなる。

 

 罪人とみなされていた者が全て義と認められるとなれば、社会の秩序基準への同化を強いるということは起こりようがない、したがって社会の秩序基準に同化しない者を排除するということも起こりようがない。

 

イエスは抹消された。抹消の原因はイエスが「罪人を義と認める」からであり、このイエスを放置しておくことは社会秩序を崩すからであった。イエスは社会秩序そのものを崩すそうとしたわけではなく、「同化と排除」を当然として繰り返す社会秩序に対し否を示したのであった。

 

 「イエスはいかなる方であったか」の問いに答える一つの答えは、「同化と排除」をなくそうとした方であった、と、わたくしは考える。

 

この方をメシアと信じた人々はこの方向と線で生きようと志したのではなかったか。福音書の著者と教会は、今日のわたしたちに、この方向と線で歩むよう奨めているのではないか。