マルコ福音書から(35)15章1~5 《神の沈黙》
物語はイエスがローマ帝国のユダヤ総督の官邸にて総督ピラトによって尋問される場面を描く。
ユダヤ体制側はイエスを極刑にせよと迫る。ピラトはイエスに弁明を促す。イエスはそれをせず沈黙する。ピラトはイエスが弁明せず黙っているのか分からなかった。
ここで沈黙するイエスは福音書のこれまでのイエスとは違っている。ここに来るまでのイエスは語る人であり語り続ける人であったが、ここでは語らない人であり、沈黙する人である。この沈黙するイエスを伝えるこの物語は何かを語っていると思われる。
ここはイエスが沈黙する人であることによってローマ帝国のユダヤ総督ピラトの姿が浮き彫りになって示される。
総督ピラトはここに集まってきている人々にこう言った、
「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか。」
ここでピラトはここに集まってきている人々に判断を求めているのだが、これはしかし、ピラトが人々の意見を参考にする慎重さを示したということではない。むしろ、ピラトが自分の責任で判断し、決断することができず、人々がこう言っているのだからやむをえないとしてゆく、主体性のない者であることを示した場面であると言えるのではないか。
総督ピラトは自分の考えではこの程度のことでイエスを極刑の十字架に処するのは適当ではないとしていたようだ。しかし、それを示せば自分の立場が危うくなることを知っていた。ピラトはイエスが何かを言ったならそれを言いがかりにして判定を下すことができ、その場合自分の責任は逃れられる。しかし、ピラトはイエスの沈黙に出会い、それができない。
ここで彼は自分の責任で判断し決断することのできない人間であることがあらわにされる。イエスの沈黙によってそれが浮き彫りになる。
ここでイエスの沈黙は総督ピラトに問いを出すものとなっている。あなたは、わたしのことをどう思うか、あなたはどう判断し、いかなる決断をするのか。沈黙のイエスはここで総督ピラトにこういう問いを出していると言ってよいのではないか。
この問いは、しかし、福音書を通してみたとき、ピラトにだけ出された問いであったわけではないことが分かる。
わたくしの読むところ、福音書の14章と15章に記された受難物語はこの問いを扱っていると思われる。受難物語は「神の沈黙」をテーマとしており、神の沈黙という状況の中で自分はどう考え決断するか、この問いを提示していると、わたくしには読める。
ここで、それを示している顕著な場面を二つ挙げる。
その一つはイエスがゲッセマネで祈った場面である。
イエスは十字架処刑による死を避けたかった。別な選択肢があるのではないかとイエスは神に向かって問うた。しかし、神から答えはなかった。この場面は「神の沈黙」の状況の中でイエスが自分としてどう考え決断するかその問いに直面した場面であったのではないか。
いま一つの場面はイエスが今生の生を終える最期の場面である。
イエスは「わが神、わが神、何故、われを見捨て給いき」と叫んだ。このイエスの叫び求めに対し神からの答えは何もなかった。この場面、「神の沈黙」がテーマとなっていると言ってよいのではないか。
福音書はこのようにして、イエスがその生の最終の決定的段階において神の沈黙の状況の中で自らの道を自分で判断し決断したこと、そして生の最期において神の沈黙状況の中で自らの生を終えたということ、を語っている。
ここで、この「神の沈黙」ということについて考えておきたいことがある。
「神の沈黙」は、旧約聖書におけるテーマのうちで最大のものの一つであると思う。
わたくしの読むところ、このテーマを正面から扱っているのは「ヨブ記」である。
ヨブ記のヨブは不条理な病に襲われる。ヨブは神に向かって問う、「なにゆえの病であるのか」と。しかし、ヨブに神からの答えはない。ヨブの友人たちが登場しヨブに教示する。彼らがヨブに教示したことは要約すればこうなろう。
神の答えは律法に示されている。律法によれば病の原因は律法違反にあるゆえ律法の教えに従って罪を認め悔い改めるなら病の癒しが与えられよう。神は律法において答えを示しており、沈黙しているわけではない。ヨブは神からの答えがないと神に抗議するが、それは間違いで、律法を読めばそこには神からの答えが示されてある。
ヨブはこの教示に納得しない。
ヨブ記はヨブと友人たちの主張がそのまま平行する形で続き最終章に至るのだが、その最終章に留意されるべきことが記されている。すなわち、そこには神がヨブを肯定しヨブの友人たちを否定する、それが記されている。神が言われるには、神の応答を求め続けたヨブが正しく、それをしなかった友人たちは誤っている。これが記されている。
わたくしは、最終章でこのように述べるヨブ記の著者の言わんとしていることを次のようなこととして理解している。
ヨブ記の最終章で神がヨブの友人たちの取ってきた立場を否定したということは、律法において神の意思は明らかであり神は沈黙してはいないとする友人たちの主張を退けたということ。これに対し神がヨブの取ってきた立場を肯定したということは、神の沈黙はないのではなくあるのであって、ここにおいては「神に問う」ということが重要なことなのであるということ。
ここで、考えてみたい文学作品がある。
それは、この国のキリスト教作家、遠藤周作の文学作品の『沈黙』、である。
遠藤周作はこの作品において長崎の島原のキリシタン弾圧下における人間の群像を描いているのだが、遠藤はこの作品で一つの問題提起をした。それは「神の沈黙」に関することである。
遠藤のこの作品の最後の場面は、踏絵による迫害に直面したキリスト教徒に最終の局面で「踏んでもよい」という許しの声があったとしている。これが遠藤のこの作品の結びであると言ってよい。
わたくしは遠藤のこの文学作品からいろいろなことを考えさせられたが、その一つは「神の沈黙」ということについてである。遠藤によればキリスト教の神は許しの神であるということであるが、わたくしはこの遠藤の言うところはこういうことでもあると解する。すなわち、キリスト教の神は沈黙し切る神ではなく、優しく語りける神である。
遠藤はキリスト教の神は許しの神であり沈黙し切る神ではないとしたのであるが、ここには動機があった。その動機について、遠藤自身語っている、日本人がキリスト教に入るようにするためにはキリスト教の神は「踏んでもよい」とする許しの神、沈黙し切るのではなく優しく語りかける神でなければならない。
遠藤周作はこの作品を書くために新約聖書の福音書を綿密に調べたという。彼は、しかし、マルコ福音書には従わなかった。ゲッセマネで神との対話を求めるイエスに対し神は沈黙し続けたこのマルコ福音書に描かれているところは、遠藤はもちろん承知しているのだが、これを採用せず、これを捨てた。
遠藤がマルコ福音書の描くところを採用せずこれを捨てた理由は、今述べたことである。すなわち、日本人がキリスト教に入るようにするためには、キリスト教の神は「踏んでもよい」とする許しの神、沈黙し切るのではなく優しく語りかける神でなければならない。
遠藤の作品『沈黙』は多くの読者に感動を与えた。が、遠藤のこの作品が多くの読者に感動を呼び起こすことができたのは、遠藤自身認めているように、マルコ福音書には従わなかったことによる。神の沈黙の中で生を終え、神からの語りかけを聞くことなしに生を全うしたイエスを描くマルコ福音書を採用せず、これを捨てたことによる。
わたしたちはどうするのか。わたしたちもマルコ福音書を、たてまえとしてはともかくとして、事実上は採用せず捨てるのか。
新約聖書には、神の沈黙の中で十字架死にて生を終えたイエスの姿に、律法義認による自己神化を進めるほかなかったありようを全的に砕く力のあることを聴き取ったパウロがいる。
わたしたちはこのパウロから示唆を受け、神の沈黙の中で生を全うしたイエスを描くことで最終描写としているマルコ福音書から、わたしたちなりに何かを聴き取ろうとするのか。この福音書はこの問いを発するために書かれたのではないかと思う。