マルコ福音書から(5) 1章21~28 〈悪の霊とのたたかい〉
きょうの物語は悪の霊を追い出すイエスを描く。
ここに登場する悪霊に憑依された者とは古代オリエント世界に広まっていた呪術にのめりこんでいた者である、と察せられる。
古代オリエントの世界において広まっていたものに呪術があった。その呪術は相手の名を呼ぶことによってその相手を支配し、自分に従わせるとするものであった。きょうの物語に登場する者はイエスの名を呼びイエスを従わせようとしている。この者は呪術にのめり込んでいる者と見てよいだろう。
ここでイエスはこの者を黙らせた。この時、悪の霊は追い出された、と、物語はしている。そうすると、悪霊の追放とは呪術からの解放ということでもあると言ってよいだろう。
古代ユダヤ教の教師たちは呪術が社会にはびこらないよう努力した。ユダヤ教の神が呪術に利用され、呪術を行う者の利益獲得の道具にされてしまうことのないようにするためであった。その努力の甲斐があって古代ユダヤ教社会には呪術を職業とする組織は成立しなかったと言われている。
きょうの物語には呪術にのめり込んでいた者に呪術をもって応対したイエスが描かれている。そうすると、イエスは古代ユダヤ教の教師たちがしてはならないとしていたことを行ったことになる。イエスはそれを承知したうえで、呪術にのめり込んでいた者をそのままにしておくことをせず、この者に向き合い、この者を呪術から解放した。きょうの物語に描かれている悪霊の追放は呪術からの解放の出来事として理解することができると思う。
ところで、この福音書はイエスが悪霊を追い出す闘いをしたことを好んで描く。ここの物語もその一つだ。しかし、この物語にはほかの悪霊追放物語にはない特徴が認められる。それは悪霊追放を「権威ある新しい教え」によって行っているとするところにこの物語の特徴が認められる。物語の場面を追ってみよう。
イエスは安息日に会堂において教え始められた。イエスは聖書の解き明かしをされた。すると、そこにいた人々はイエスの聖書の解き明かしに非常におどろいた。というのは、律法学者のようにではなく権威ある者として教えられたからである、と、福音書著者は人々がおどろいたことの理由を記す。物語はこの後、イエスが悪の霊を追い出す場面となる。物語の結びは、「人々は皆おどろき、これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。」
福音書著者によれば、イエスの聖書の解き明かしは悪霊追放の力を持つ。イエスの聖書の解き明かしは悪霊を黙らせる権威を持ち、呪術にのめり込んでいる者をその呪術の縛りから解き放つ力を持つ。著者は「律法学者のようにではなく権威ある者として教えた」と記した。意味するところはこういうことであろう。これまで人々が聞いてきた律法学者の聖書の解き明かしは何が正しく何が間違っているかについての教えであっただけで、そこからは人を呪縛し人を苦しめているものからの解放は起こらなかった。
ここで留意すべき点は、福音書著者が悪霊の追放と聖書の解き明かしを結びつけていることにある。福音書著者はイエスの聖書の解き明かしは悪霊追放の出来事を起こすと記す。著者は聖書の解き明かしの重要性を承知していた。ここでわたくしの推察を言えば、著者はこれを記すことによって問いを出している。教会における聖書の解き明かしが出来事を起こすことになっているか、と。
ここで、この「悪霊の追放」ということに関し、考えてみたいことがある。
最初期キリスト教の伝道者パウロは罪の問題について考え洞察した。それがローマ書七章やフィリピ書三章に記されている彼の告白から知ることができる。わたくしは「悪霊の追放」に関して考えるうえで、その所は深い示唆となると思っている。ここでわたくしの考えているところを述べてみることにする。
パウロは律法を守ることによって義を行い得ることができるとしてきた。ところが、そうではないこと、むしろ律法を守ることによってかえって罪を犯すことになるということを知る。そのことがローマ書7章に記されている。彼のそこでの記述は難解だが、わたくしの理解ではこうなる。
彼は言う、律法によって「むさぼり」なるものを知った。この彼の「知った」は次の事態を言っていると、わたくしは解する。彼は律法を遵守する人であったから「むさぼるな」を実行した。彼はそれができた人であった。彼はその結果、律法を行い得る自分を誇る人となった。これはフィリピ書3章の記述から確認することができる。
彼は「誇る」ということがどういうことになるかを承知していた。「誇る」は人間の自己神化をきたらせる、これを承知していた。彼は律法を遵守することによって自己を誇り、自己神化という最大の罪を犯すことになることを承知していた。
律法を遵守することは最高善である。ところがこの最高善が自己神化の最高悪を生む。彼はこれを知った。しかし、そうだからと言って律法の遵守の道から外れることはできなかった。彼にとって律法の遵守は最高善の道であったから。最高善が最高悪を行う、彼は自分がこの絶対矛盾の前で身動きできずにいることを知るに至る。彼がこの認識を深い次元で持つに至るのは、彼がキリスト者になってからであると、わたくしは解している。
彼は自分についてこう認識するに至ったとき次のように表現するほかなかった。わたしの内にわたしの思いとは別の全く異なる法則があって、わたしの思いとは逆の方向にわたしを向かわせ、それがわたしの内にあって離れない。彼はこれを「罪の法則」と表現する。彼は罪の力を極めて深刻にとらえ、これは人の力でどうにかすることのできるものではないと言うのである。
彼はこう述べた後、この罪の力から解放させしめるものはイエス・キリストから来る霊の力によるほかないと言った。これはローマ書8章の冒頭に記されているが、この言葉が彼の結びの言葉となっている。
きょうの福音書物語は、人を縛る悪の霊の力に対し聖書の解き明かしによって立ち向かい、そうすることによって悪の霊の力を無力化したイエスが描かれている。わたくしはこの福音書物語はパウロがローマ書にて吐露した告白と関わると考える。
パウロが「罪の法則」と言い表した、人の力でどうすることもできない罪の力、それからの解放はパウロの言い方ではイエス・キリストから来る霊の力によるほかない。きょうの福音書物語ではナザレのイエスの聖書の解き明かしが悪霊の力を無化する。
ここで、最初期キリスト教の人々の信仰の闘いがどういうものであったか、それを示している新約聖書の言葉を読むことにする。
「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる諸々の悪の諸々の霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日々によく抵抗し、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エペソ書6章)
ここにはキリスト教徒が聴くべき最後の言葉が述べられているようだ。
わたしたちが闘う相手は人間ではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸々の霊である。この書簡の著者は「悪の諸々の霊」との闘いに当たっては「神の武具」の比喩で示した「神の言葉」を身に着けるほかないと述べる。
この書簡の著者の言う「神の言葉」は、福音書によって言えば「ナザレのイエス」。この書簡の著者の言う「悪の諸々の霊」との闘いをするには、福音書によって言えば「ナザレのイエス」の後についてゆくほかない。
新約聖書は人間を破壊者にしているのは「悪霊」であると述べる。ローマ書のパウロもエフェソ書の著者も福音書の著者も。新約聖書は人間を破壊する罪の力を悪霊が憑依していることから来ているとしている。
これは人間の行う破壊に人間の責任はないと言っているのではない。そうではなく、人間の破壊行為が人間自身の自力で解消されるような次元のものではないということを言っているのである。わたくしはこの新約聖書において言われていることに真理があると考えている。新約聖書に言われているこのことは古代という時代においては通用したが今日では通用しないとは考えていない。わたくしは人間を破壊者にする悪霊は今日猛威を奮っていると考えている。
悪霊は偽装に長けているのでこれを見破るのは容易なことではない。しかし、福音書著者は語る、ナザレのイエスの後についてゆけば、それは可能。福音書著者はわたしたちに、今日の偽装する悪霊との闘い、それを為すよう促している。