マルコ福音書より(29) 14章22~26 〈最後の晩餐〉
物語は「最後の晩餐」と呼ばれている。この「最後の晩餐」の物語を適切に理解するうえで重要となるのは、次のイエスの言葉であると思われる。
「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
ここでイエスは「神の国が来るまではぶどうの実から作ったものを飲まない」と言われた。このイエスの言葉は、イエスが「神の国が来る」ことを信じていたということを示している。
ここでイエスは、その神の国の到来の暁に催される宴においてぶどう酒が飲み交わされるその場面を思い描いている、そう言ってよい。
この晩餐は、イエスにおいてはその到来する神の国の祝い宴の前もっての開催ということになる。
ここでイエスは、その宴の主催者として、その宴への招きをなさっているのだと思われる。そうすると、イエスの言葉の「これはわたしの体である」「これはわたしの血である」は、その宴への招きの言葉であるということになるのではないか。ここでイエスはそれを前もって語ったということになるのではないか。
ここでイエスの言われる「神の国」を解するため、次のイエスの言葉の意味するところを解する必要がある。
「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
ここに「契約」という言葉がある。この「契約」という言葉はイエスの基盤である旧約聖書における最も重要な言葉である。
旧約聖書における「契約」を解するうえで最も重要な箇所は出エジプト記19章と20章であると、わたくしは考えている。そこには神名をヤハウエとする神とヘブライ人たちとの間に「契約」という関係が成り立ったことが記されている。
この契約が結ばれる場面で取り交わされた約束があった。それは「十の言葉」を守る約束であった。この約束は神ヤハウエから授与されたのであるが、この約束はここに成立した民イスラエルにおいて積極的に受容されたのであった。
この契約に加わった者たちは一つの共通の自己理解を持つ。すなわち、自分たちは苦役の地エジプトから救出された者たちであって、この救出をもたらした神ヤハウエに対し誠実であること、具体的にはここに取り交わした約束を守るということ。これがこの契約に加わった者たちにおいて共有された自己理解であった。
しかし、旧約聖書がこの後に記していることは、この契約の民はこの「十の言葉」を守ることができず、契約の民としては破綻し崩壊したということ、である。
この契約の民の破綻と崩壊が決定的に起こった歴史の局面に立ち会ったのは預言者エレミヤであった。彼は、ユダ王国の壊滅とバビロン捕囚は契約の民イスラエルの破綻と崩壊が決定的となったことを意味する、と語った。
エレミヤは、しかし、そのことを語った後に、希望を語った。その希望はエレミヤ書31章に記され、「新しい契約」と呼ばれている。それによれば、「新たな契約の民」の成立が神の一方的な計らいによって与えられる、とある。
「新しい契約」という言葉はきょうのマルコ福音書物語にはなく、新約聖書のほかのところに出てきているのであるが、これは得られた伝承の相異からくるものであると思われる。
このマルコ福音書において「契約」とあるこれも実質的には「新しい契約」と呼び得るものであると言ってよいのではないかと、わたくしは考える。
最初期キリスト教の人々は、イエスの出来事をこのエレミヤの希望の預言「新しい契約」の成就であるとしたと解した、と言ってよいのではないか。
きょうの福音書物語にある「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」このイエスの言葉は、こう解される。すなわち、「契約の血」の「血」は、契約の成立に際して流される血のことを指している。
出エジプト記24章にこういう記述がある。
モーセは神と民との間で契約の成立の祭儀を執り行なうが、そのとき祭壇にささげられた牛の血の半分を器に取り、半分を祭壇にふりかけ、契約の書を民に読み聞かせ、民が「わたしたちは主が語られたことをすべて行います」と言った後に、器に取っておいた血を民にふりかけ、こう述べる、
「これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」 きょうの福音書物語の「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」このイエスの言葉の中にある「血」は、出エジプト記24章に記されている契約の血の意味に解してよいと、わたくしは考えている。
ここで総括して言うとこうなるかと思う。
最後の晩餐においてイエスが言われたことは「新しい契約」の成立ということ。ここでイエスが言われた十字架死において流される血はこの「新しい契約」の成立に際し流される血であるということ。わたくしはこう解している。
ここでいまいちど、出エジプト記19章と20章において記されている契約において何が約束として誓われたことであったかを確認しておきたい。
約束の第一にあるものは、神名をヤハウエとする神のほかに神とすることはしない、であった。この約束は何を意味するか。
この約束は出エジプト後、すなわちエジプトを捨てた後、そのうえで成り立った約束である。
その地を捨てたとは「エジプト的なるもの」を捨てたということ。これが約束の際の実質的な事柄であった。
「十の言葉」の最初にある約束、すなわち「神名をヤハウエとする神のほかに神とすることはしない」の実質的な事柄は「エジプト的なるものを捨てる」ということであった。
では、捨てるべき「エジプト的なるもの」とは何であるのか。
出エジプト記20章の「十の言葉」が「エジプト的なるもの」として挙げているのはまずは「偶像礼拝」ということである。
「偶像礼拝を捨てる」ということは、形のあるものを拝むことをしないという程度のことではない。「偶像」で意味されているものは「力」である。「偶像礼拝」で意味されていることは力を持った者が力にまかせて力のない者を抑圧することである。すなわち「偶像礼拝」とは権力を崇拝する偽神礼拝のことである。
最初期キリスト教の人々は「契約」というとき、旧約聖書の出エジプト記19章と20章の記すところをふまえていたのではないか。最初期キリスト教の人々は、ナザレのイエスにおいて成就した「新しい契約の民」とは「エジプト的なるもの」を捨てる民のこと、すなわち権力を崇拝する偽神礼拝を捨てる民であるということ、この理解を共有し、この理解の共有をもってこの共同体の自己理解とした。
きょうの福音書物語には「新しい契約」の成就、それが到来する「神の国」の内容であるということが記されているが、ここには最初期キリスト教の人々の信仰が映し出されていると言ってよいと思う。
この福音書の「最後の晩餐」の場面で明らかにされたことはこういういうことであったと言ってよいと思う。イエスの言われる「神の国」とは、「新しい契約」の成就の実質的な事柄である「エジプト的なるもの」を捨てること、すなわち権力を崇拝する偽神礼拝を捨てること、それが起こるということ。
イエスは最後の晩餐においてそこにいる者たちに委託した。十字架死の後に成立する「新しい契約」の成就を証すること、「新しい契約」において成就する「神の国」の事柄を証しすること、これを委託した。
このイエスからの委託は、事柄としては「エジプト的なるものもの」を捨てること、すなわち「権力を崇拝する偽神礼拝」を捨てること、これが起こることに仕えること、である。
今日、「エジプト的なるもの」「権力を崇拝する偽神礼拝」を強いる国家が登場しているがこの状況にあって、わたしたちはイエスからの委託に応えるものでありたい。