マルコ福音書より(23)10章46~52  〈何をしてほしいのか〉

2015年10月14日 11:46

イエスはひとりの盲人に問うた、

「何をしてほしいのか。」

 

この問いは、きょうの物語の前に置かれている物語にもある。10章36節であるが、イエスは二人の弟子たちに同じ問いを向けている。

 

推察するに、この問い「何をしてほしいのか」が二つの物語を関係づけている。そして、その関係づけは逆対照、つまり逆のものを並べて対照している。

 

 きょうの物語ではイエスの問い「何をしてほしいのか」に対し、ここに登場している盲人は「見えるようになりたいのです」。きょうの物語の前に置かれている物語ではそこに登場している二人の弟子たちは「栄光をお受けになる時、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせてください」であった。

このように並べるとはっきりする。イエスの「何をしてほしいのか」の問に対し、盲人と弟子たちとではかなりの違いがある。盲人は見えるようになることを求め、弟子たちは栄光ある地位を求める。

 

ここには、この福音書の著者がたびたび用いる物語の描写方法がある。それは違ったものを並べる方法である。ここでも二種類の人間を登場させ、一方に「自分は見えない」ゆえ「見えるようにしてください」と懇願する人間、他方に「自分は見える」ゆえ「見える力量に見合った地位」を要求する人間である。

 

この両者の違いは、おそらく、それぞれの自分理解の違いから生じている。盲人の自分理解は「見えない者」である。これに対し二人の弟子たちの自分理解は栄光の地位に就くだけの力量を持っている者、すなわち「見える者」である。

 

ここでも旧約聖書を参照してみたい。

 

旧約聖書にはヘブライ人宗教の始まりが記されている。この宗教はヘブライ人たちが苦役を強いられ自由を奪われていた状況から始まった宗教。ヘブライ人たちは自分たちが困難な状況にあることを訴え、助けを求めた。

 

ヘブライ人たちは神が遣わしたモーセの働きによって出エジプトに至る。ヘブライ人たちは苦役を強いられ自由を奪われていた状況から解放された。この人々はモーセを仲保者にし、この恵みの神と誓約するに至った。ここに「イスラエル」が成立した。

 

この成立の始まりは、イスラエルに自分理解に関し方向を与えた。この民イスラエルは神に助けを求める民であり自力での救済を行う民ではない、この自分理解がこの民を方向づけるものとなった。

 

 この民は王政を取るに至った。取るに至った理由は、実際上の必要に対処することにあった。すなわち、侵略者に対し自衛する必要があった。この王政は実際上の必要に対処するに有効であった。

この王政は自信を持ち始める。自分たちで自分たちのことは守れるではないか、いちいち神に助けを求めなくても自分たちで自分たちのことは守れるではないか。この民は自信から確信へと進む。

 

民のこの確信は「自助の思想」へ、すなわち神なしで自分のことは自分においてできるとする「自助の思想」へと進む。

 

王政が生みだした「自助の思想」に自信を持ち確信へと至った者たちが、この王政の制度を維持する体制の側で高い地位を得ようとしてゆく。この傾向は、いずれの者においても、新たに革命によって王政を打倒し新たな制度を構築する者たちにおいても続く。高い地位を求める者たちの争いは絶えることなく続く。

 

このとき、この人間の精神の底で、ある「人間理解」が進行。それは、人間は自分で自分を助け得る能力をもっている、とする人間理解。このとき人間は、この人間理解には重大な問題が発生しているということ、それに気づかない。

この人間理解の中で、あるものが醸成される。それは「高慢」である。その醸成された人間の「高慢」、これが地上の生きとし生けるものを支配し、その命を絶滅させるに至らせる因である。が、人間はこれに気づかない。

 

ここで新約聖書に戻る。

 

 きょうの福音書物語には一人の人が登場する。この人は「見えるようにしてほしい」と懇願する。ここに登場しているこの人は「自助の思想」に立っていない。この人はこの思想を棄てている。この意味では、この人は本来のイスラエル、王政以前に存在した本来のイスラエルである。

 

きょうの福音書物語の前の物語に登場する弟子たちは共同体における高い地位を求めている。自分たちにはその力量がある、と、自分を理解している。この者たちは「自助の思想」に立っている。この者たちからは「見えるようにしてほしい」の懇願は発せられることはない。

この者たちには、自分たちは救われねばならない、助けられなければならない、そうでなければ立ち行かない者である、この自分理解はない。

 

この者たちは、自分こそが救われなければならない、助けられねばならない、とは考えていない。この者たちは、自分自身に問題があるという発想はない。この者たちは、問題があるのはあの者たちであるという発想、これしか持っていない。

 

きょうの物語との対照において記されている物語において浮き彫りになった二人の弟子たちの問題は次の問題でもある。

 

二人の弟子たちは地位を得たいと願っている。この願はすなわち権力を得たいということである。二人の弟子たちはこう考えている、この悪しき世を正すにはそれに必要な権力を持たなければならない。つまり、二人の権力獲得の願望は善意に基づいている。この論理に真理契機がある。

 

この世の政治はこの論理で動いており、悪しきことが生じないために、また、悪しきことをなくすために、よりよいことになるようにするために、権力の存在は認められ得るし、積極的に肯定され得るものであると言ってよい。しかし、権力というもの、これには危ういものがつきまとう。

 

イエスは権力を求める弟子たちにこう言われた、

「あなた方も知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされる人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」

 

イエスは権力というものが実際にはどういう実態にあるかについて認識していた。権力というものの実態は横暴な権力支配であることが多い。ここでは、権力がそうなるのは異邦人の間のことと言われているが、この問題は弟子たちの中に起こらないとは言えない、いや、むしろ、権力の獲得に熱を上げている弟子たちも支配というものをしてみたいとする欲求にからめとられ、この弟子たちが横暴な権力支配をするようになる。

 イエスは弟子たちに言われた、

「あなたがたの中で偉くなりたい者は皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者はすべての人の僕になりなさい。」

 

福音書著者は、ここで、権力の獲得を欲求する二人の弟子たちに対し、それを否定するイエスを描く。

 

きょうの物語は、その直後に置かれている。すなわち、権力欲求を否定するイエス物語の直後に、助けを懇願する人を癒すイエス物語が置かれている。ここには福音書著者の編集意図があるのではないか。

 

 きょうの物語は、イエスの一行がエルサレムに到着する直前、すなわちエルサレムで事が始まるその直前に置かれている。ここにも、もしかすると、福音書著者の編集意図があるのではないか。

 

エルサレムで起こることはイエスの受難。この受難はイエスの最後の生であると言い得る。そのイエスの最後の生である受難の直前に、きょうの物語は置かれている。

もしかすると、きょうの物語は、そのイエスの最後の生である受難の意味を先取りし、予示するため直前に置かれた、というしだいではないか。

 

もし、きょうの物語がイエスの最後の生である受難の意味の先取りであり、予示であると推量してよいとすれば、きょうの物語、すなわち自助の思想を捨て懇願する者にイエスは向き合い癒しを与えた物語、ここにイエスの全てが凝縮され示されていると言ってよいのではないか。

 

「何をしてほしいのか」

 

イエスのこの問いが、わたくしに向けられたとき、わたくしは何と言うだろうか。きょうの福音書物語に登場する人のようであるだろうか、それとも二人の弟子たちのようであるだろうか。