マルコ福音書より(31) 14章43~50 〈十二弟子の一人ユダ〉
物語はユダの裏切りを描いている。
福音書がユダを紹介するとき付けている言葉がある。それは「十二人の一人」という言葉である。
これは必ず付けているので、ここには意図があると思われる。
その意図はユダが行ったことは弟子が行ったこと、ユダの問題は弟子たちの問題である、これを言うためであったと思われる。福音書はユダの裏切りを描くことを通して弟子たちの問題を浮かび上がらせようとしている。
ここで、なぜそうするのか問うておきたい。
福音書の執筆目的はイエスがキリストであることを証言することにある。
ユダの裏切り、すなわち弟子たちの問題を浮かび上がらせることは、この執筆目的からして外すことはできない、と、福音書著者は考えた。そう言ってよいと思われる。
ここで、一人の神学者の述べているところを紹介したい。
それは、カール・バルトが『教会教義学』の中で述べている「ユダの裏切り」についてのところである。そこに記されているところを紹介する。
バルトによると、聖書において神について証しする証人は二通りある。
ひとつは神が望んでいることを行うという仕方で神について証しする証人。いまひとつは神が望んでいないことを行うという仕方で神について証しする証人。この二人はいずれも神について証しする証人である。
神の望んでいることを行う人は神について証しする証人であるが、神の望んでいないことを行う人も聖書では神について証しする証人である。
後者の証人はどういうことが神の望まないことであるかを証しするということで、実はこの証人は、神の望むところを行う証人よりも神の意思についてむしろはっきりと証しする証人であると言い得る。
神を否定するものが何であるかを明らかにするという点で、この証人は神の望むことを行った証人よりも神の意思についてよりよく証しする証人である。
ユダはその証人である。この意味でユダに優る証人は聖書には出てきていない。神の否定するものが何であるかを証しするという点で、ユダに優る者はいない。
バルトは、ユダを神の否定するものが何であるかを証しする証人の一人として挙げているが、彼によれば、聖書にはこのユダに並ぶ証人が登場している。
バルトはダビデの名を挙げ、ダビデはユダに並ぶ証人であると言う。
(ここで、時間が許される範囲でバルトの述べているところを紹介する。)
旧約聖書の描くダビデの生涯は王に即位する前と後とでは全く違ったものになっている。(バルトはそこに着目する。)
ダビデは王に即位する前は神の望むところを行う証人として描かれている。
襲来してきた強力な武装の国家ペリシテの軍隊に対し、ダビデは当時の牧童が携帯する「五つの小石」だけを持って立ち向かった。旧約聖書はこのダビデを神の望むところを行う証人として描いていると言ってよい。
これに対し、ダビデが王に即位した後は神の否定することを行う者として描かれている。旧約聖書はそのことを詳細に描く。
ダビデは忠実な軍人の妻を卑劣な手段を使って奪った。この物語はダビデが神の意思を証しする証人として失格したことを描くものとして読まれる。
(しかし、バルトはそうは読まない。彼は次のように述べる。)
旧約聖書がダビデの卑劣な行為を描くその意図は、ダビデを神の否定することを証しする証人であるとして登場させている。これはダビデが神の意思を証しする証人として失格したとすることではなく、神の否定することを証しする証人であったとして描くものである。ここに旧約聖書の意図がある。
(バルトによれば)、
旧約聖書はダビデには二面があるとしている。すなわち、神の望むところが何であるかを証しする証人であるという面と、神の否定するところが何であるかを証しする証人であるという面と、この二面があると旧約聖書は述べている。
聖書においては神について証しする証人に二通りあるが、その二通りがダビデにおいて重層的に重なっている。
ここで、バルトの述べる「ユダ」に関するところをやや詳しく紹介する。
マルコ福音書はユダの行ったことを「引き渡す」という言葉を用いている。
ここでは「イエスを裏切ろうとしていたユダは」と訳されているが、この「裏切る」というところは「引き渡す」という言葉である。
新約聖書では「引き渡す」という言葉は神がイエスを世に渡すとき用いる言葉でもある。代表的な事例を挙げると、
ヨハネ福音書3章16「神はその独り子を与えるほどに世を愛された」。
この「与える」は「引き渡す」と同類の言葉である。
それゆえ、ユダの引き渡す行為は新約聖書の言葉の用い方によって言えばこうなる。ユダの引き渡す行為は、神が為されたイエスを世に渡す行為と同じことをしたことである。
(バルトによれば)
この新約聖書の用語使用法は留意されなければならない、ここには新約聖書の中で最も重要なことが言われている。
(バルトはそう述べた後、次のように述べる。)
ユダの行為は裏切りの行為であったが、このユダの行為はイエスを世に引き渡す行為であった、そのゆえにユダの行為は、神がイエスを世に引き渡した、それをさらに促進させるものであり、結局は神の計画に手伝いをしたということにすぎないと言わなければならない。
新約聖書がユダの行為に「引き渡す」の語を当てたのは、ユダの行為の罪を免れさせるためではなく、人間のいかなる行為であっても神の企てを消滅させることはできない、神の企ては人間の罪の行為を用いて前に進む、これを言うことにあった。
以上でバルトの述べるところの紹介を終えることにする。
わたくしは自分の過ぎ越し方を振り返えったとき、このバルトの聖書解釈は我が身に染みるところがある。
ここで、わたくしは、一つの言葉を用いてみようと思う。
それは「アイロニー」という言葉である。
ユダの行為においてアイロニーが生じていると、わたくしは思う。
人間の罪の行為が神の企てを消滅させたと見えた、が、そうではなく、人間の罪の行為が神の企ての実現の手伝いをすることになるというアイロニーが生じた。すなわち、意図したこととは逆の結果が生じた。
これが新約聖書の福音書に描かれているユダ物語の思想上のテーマではないか、と、わたくしには思われる。
きょうの物語を読み終えるに当り、パウロの次の言葉を添えることにしたい。
「罪が増し加わったところに、恵みがそれを超えてさらに増し加わった。」
(ロマ書5章20)