マルコ福音書より(30) 14章32~42 〈御心に適う〉
物語はゲッセマネにおけるイエスの祈りを伝える。
イエスはこう祈った。
「この杯をわたしから取りのけてください。」
このイエスの祈りは何を意味しているだろうか。「この杯」という言葉が意味していることは何であろうか。
このときの状況は、明日は十字架処刑が確実ということであるからして、「この杯」は「十字架処刑」を指していると言ってよいだろう。そうであるとすると、イエスが取りのけてくださいとしていることは、「十字架処刑」という仕方で抹殺されること、これだけは取りのけてくださいとしたということになる。
ここで「十字架処刑」がいかなるものであったか考えておきたい。
最初期キリスト教の伝道者のパウロがイエスの十字架のことについて次のように述べている。イエスの十字架はギリシャ人には愚か以外のなにものでもない、ユダヤ人には恥以外のなにものでもない。
ここでパウロが言っていることはこうである。イエスの十字架は知恵に救いを得ようとする者には愚か以外の何物でもない、良い行いをして誉れを得ることで救いを得ようとする者には恥辱以外のなにものでもない。
イエスもこのことは承知していたであろう。そうだとすると、イエスの「取りのけてください」の意味はこうなるのではないか。すなわち、「取りのけてください」は「十字架処刑」という恥辱以外の何物でもない抹殺のされ方、それだけは取りのけてくださいということを意味していた。
ここで、一つの推測が許されるかもしれない。それは、イエスの中に躊躇・揺らぎ・戸惑いがあったのではないかという推測である。
このときイエスは十字架死を避けようとすればできないことではなかった。これとは別な殺され方となることを選択することは可能であった。イエスは十字架処刑を前にして、これに向かうべきか、イエスの中に躊躇・揺らぎ・戸惑いがあったのではないか。
イエスは「この杯をわたしから取りのけてください」の後こう祈った、
「しかし、わたしが願うことではなく、御心にかなうことが行われますように。」
イエスはここで、躊躇・揺らぎ・戸惑いを押しのけ、それをふっきって、「アッバ、父よ」と呼びかけた神の意思にしたがう決断に至る。
では、ここでイエスがしたがうことを決断した神の意思とは何であったのか。
ここで、わたくしの理解を述べることにしたい。
パウロによれば、知恵に救いがある、良い行いに救いがある、しかし、この救いの道には人間に問題を発生させるものがある。
彼によれば、人間は知恵に救いを得て生きている中で、また、良い行いに救いを得て生きている中で、人間の精神の内にて醸成されるものがある。それは「高慢」、「高慢」が人間の精神の内に醸成される。
パウロによれば、この醸成された高慢が人間を間違わせる。人間は高慢になることによって自己義認し、自己神化に陥り、この人間がこの地上世界の生きとし生けるもの、神によって造られた全被造物を滅びの瀬戸際に至らせている。
パウロによれば、その人間の高慢による全被造物の滅びから救う道が示された。それは「キリスト・イエスの十字架死」である。
パウロによれば、イエスは高慢を醸成させる道と真逆の道を生き、その真逆の最終のことである十字架死において、高慢を砕く。
パウロによれば、イエスの十字架死は人間の高慢を砕く。これによって地上世界の生きとし生けるものの命が滅びから救われることへと向かうことができる。彼によれば、これは神がこれまで秘めていた奥義の中の奥義であった。
わたくしは、きょうの福音書物語に記されているイエスの祈りの「御心に適うことが行われますように」を、パウロの洞察に教えられて、以上のように解する。すなわち、イエスの十字架死は人間の高慢を砕く。神の御心はここにあった。イエスはこの神の御心を受容した。わたくしはゲッセマネでのイエスの祈りをこのように読む。
ここで考えておきたいことがある。
それは「罪の贖い」ということについてである。
イエスの十字架死は罪の贖いのためであったとする解釈がなされ、これが教会の解釈として定着している。
「贖い」の語は奴隷を買い戻すときに支払われる「償い金」を意味することがある。この意味でイエスの十字架死を解すれば、イエスの十字架死は人々を奴隷の苦役から解放するために支払われた償い金に相当するものとなる。
聖書ではしかし、「贖い」を「償い」の意味においてではなく、次の意味において、すなわち「解放」という意味において用いられているところがある。
出エジプト記によれば、苦役の地エジプトからの解放は「神による贖い」であると記されているが、その「神による贖い」は「神による導き出し」の意味で用いられている。
そこでは「償い」の意味は出てこないし、ないのである。
わたくしは「贖い」をこの出エジプト記の線で理解している。
ここで、教会に定着している「イエスの十字架死は罪の贖いのためであった」について、わたくしの理解を言えばこうなる。イエスの十字架死は「罪の支配領域からの解放」ということ。わたくしはその意味に解しており、ここに「罪の償い」の意味をもちこまないのである。
これは「罪の償い」の問題について関心をもたないということを意味しない。これはこれで重要な倫理上の問題であて、しかるべき位置においてきちんと扱われなければならないと考えている。
わたくしは、いまいちど言うが、教会に定着している「イエスの十字架死は罪の贖いのためであった」の理解として、これは「罪の支配領域からの解放」ということであり、ここに「罪の償い」の意味をもちこまない、こうしたほうが聖書に即すると考えている。
ここで、福音書にもどる。
福音書は前半において癒しと会食のイエスを描くが、後半は権力の暴力にさらされ苦難するイエスを描く。このイエスの受難について、わたくしの理解はこうなる。
イエスの苦難の描写は、権力に対し無権力をもって対峙するイエスの苦難の姿についての証し、である。ここに描かれたイエスの苦難の描写は、権力が持つ暴力の体質すなわち人間がもっている罪の底深さ、これを明瞭に描き出すこと、そこに意図があると思われる。
人間の高慢が現れ出るのは、権力にある者が無権力者の非暴力による抵抗を受けたときである。そのとき権力にある者は、おしなべてみなと言っていい、権力を笠に着た威圧的態度をみせる。つまり、このとき人間の高慢が露骨に現れ出る。
受難物語に描かれているイエスは、無権力者の非暴力抵抗の姿をもって権力にある者たちの前に立ち尽くす。ここにおいて、権力にある者において露骨に現れ出る人間の高慢が明瞭になる。
受難物語は人間の罪を明瞭にするここで筆を止めており、そこから先のこと、つまり「罪の贖い」については言い及んでいない。が、しかし、人間の罪を明瞭する福音書の受難物語は、この描写においてすでに「罪の贖い」のことを言っているのではないか。
この描写においてすでに「罪の支配領域からの導き出し」のことを言っているのではないか。と、わたくしは読む。
きょうの福音書の物語は、イエスがその贖いの働きを全うする最終場面に至っていることを示している。
イエスは十字架死を受け入れるについて躊躇、揺れ、戸惑いがあった。恥辱以外の何ものでもない十字架死は避けるべきことである。これとは別な道があるのではないかと考えたし、そうしようとすればできないことではなかった。
イエスは十字架処刑死を受け入れた。
その理由は、わたくしの読みとして述べてきたのであるが、それをいまいちど言うと、こうなる。人間の罪を明瞭にする中で罪の支配領域にある人間をそこから解放すること、すなわち贖うこと、これが神から委託されたことであったこと。ゲッセマネにおけるイエスの祈りの中にある「御心」とはこのことを言っている、とわたくしは読む。
イエスは「御心かなうことが行われますように」と祈った。これは人間の罪を明瞭にするために「自らの体を張る」決断であった。イエスはこうすることで罪の支配領域にある人間をそこから解放し贖う。イエスはそのため満身創痍の中で生を終える。
福音書によれば、イエスはこの最終決断にいたるまで葛藤し苦闘した。その間共にいることを求められた三人の弟子たちはいることはいたのだが、目を覚ましていることができず眠り込んでしまった。イエスはこの三人に言われた、
「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。」
「立て、行こう。」