ルター先生の教え
キリスト教は何を語る宗教であるかと問われたら〈神の恵みによってのみ人は義とされる〉とわたくしは答える。では神の恵みによる義とはどういうことであるかと問われたら〈律法によって人は義とされる〉を否定することとわたくしは答える。
これは500年前の大先生ルターから教わった。ルター先生によると、この〈否定〉というところが重要で、この〈否定〉を語らないで〈神の恵みによる義〉を語るのは意味がない。
律法は〈社会通念〉の中に入り込んでいる。たとえば、〈世話をされないと生きてゆけない人は世の中にいられない〉、律法は今日この社会通念の中にある。もしルター先生が今日再登場したら、〈神の恵みによる義〉を語ることはこの社会通念を否定することであるとおっしゃるにちがいない。
また、律法は〈意味を求める〉ことの中に入り込んでいる。わたしたちは
意味を求めて生きているが、意味があると決めるのは〈律法〉である。したがって、人の存在が律法の決める意味の基準に合格しないとなれば、その人の存在は無意味となる。もしルター先生が今日再登場したら、〈神の恵みによる義〉を語るということはこの〈意味を決める律法〉を棄てることである、とおっしゃるにちがいない。
ここで或る書に書かれている文章をやや長くなるが紹介する。
「役に立つか立たないか、という物差しをもし使うならば、誰の役にも立っていない人生はある。」「けれども、役に立たなくても、別に構わない。社会や国や他人のために役に立たなくても、あるいは誰かに負担や迷惑をかけていても、生きるということはいいことである。なぜなら、生きることは、比較や線引きの対象ではなく、そのままでよいことだから。そうとしか、言えないことだから。」これは『相模原障害者殺傷事件』(青土社)の著者の杉田俊介という方の文章である。
わたくしはルター先生の教え〈神の恵みによってのみ人は義とされる〉が持つ意味の深さに心打たれている。