人間であること

2019年03月22日 10:30

新聞の報道を読んで気になるのは国の重要な事項に関し忖度(そんたく)で物事を決めることが続いていることである。

忖度するとは自分なりに考えて他人の気持ちをおしはかること、すなわち、忖度するとは他の人のことを配慮すること、つまり、良いことをすることである。だが、今日、忖度という言葉で言われていることは、そういう良い意味においてではない、むしろその逆である。

自分の上にいる者に気に入ってもらうために、いろいろなことを画策する。たとえば、記録を書き変える、事実を隠す、嘘を突き通す、こういったことをする言葉として使われている。人がこの意味での忖度をするとき、その人から失われるものがある。

この問題に関しても示唆をあたえるのは『エルサレムのアイヒマン』。この書に記載さているアイヒマンの主張。自分が首相ヒトラーのユダヤ民族絶滅に従ったのは国家の公務員として国会で制定された法律を実行したまでのこと。

この書の著者ハンナ・アーレントはアイヒマン裁判を傍聴、資料の全てを読んでこう述べる。アイヒマンに欠けているものがある、それは人間であること。

新聞報道を読んで気になるのは、この国の重要なことに関わり合う人たちが忖度なるものをしていると、アイヒマンのようになる、すなわち、人間であることを失うことになる、ということである。

ここで、聖書に登場する預言者アモスを紹介したい。

預言者アモスは王を頂点とする宮廷政治を批判した。すると、宮廷の預言者たちが現れ、アモスに退去を命じる。宮廷の預言者たちがそれをしたのは、上から言われたからでなく、自分でした。つまり、忖度なるものをしてアモスに退去を命じた、ということであったろう。

このアモスからである、預言者の言論が書き留められ文書になるのは。聖書にあるアモス書は、権力に気に入れられようと忖度してアモスの言論を封殺した宮廷の預言者たちに対し、果敢に抵抗した人びとがいて、その人たちによって成った書である。聖書にこういう書があることを覚えておきたい。