創世記五 章
1 〈アダムの系図〉
創世記5章にしるされているのは〈アダムの系図〉である。
ここで問うべきことがある。原初史物語の作者はなにゆえ〈アダムの系図〉という〈系図〉なるものを採用したのか、そしてなにゆえ〈アダムの系図〉を四章と六章の間に位置に置いたのか。
問いの後者についてはすでに述べた。原初史物語はノアから新たな歴史が始まることを物語ることをこれからのテーマとするゆえ、セトからノアへとつないでいる〈アダムの系図〉は採用するに値し、セトについて言及した四章とノアについて言及する六章の間に置いた。
ここで問いの前者について、すなわち〈アダムの系図〉という〈系図〉なるものを採用した動機について考えてみたい。
ここで聖書本文を次のように分けて掲載する。
5章1前半
「これはアダムの系図の書である。」
5章1後半~2
「神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。」
ここで〈5章1前半〉と〈5章1後半~2〉を分けて掲げたが、それには訳がある。
後者は後から入れたもの、〈アダムの系図〉に後から加えられたものとおもわれる。問いの前者について考えるとき、すなわち原初史物語はなにゆえ〈アダムの系図〉という〈系図〉なるものを採用したのかその動機について考えるとき、ここから、すなわち〈5章1後半~2〉を後から加えてことについて考えることから作業を始める、それがよいとおもわれる。
〈5章1前半〉に出ている「アダム」は固有名詞のアダムであるとおもわれる。したがって〈アダム〉という固有名詞に訳し出される。これに対して後から入れられた〈5章1後半~2〉において出てくる「アダム」は普通名詞のアダムであるとおもわれる。したがって〈人〉という普通名詞に訳し出される。
ここで〈5章1後半~2〉が加えられた動機について次のように言うことができるのではないかとおもわれる。すなわち、
原初史物語の作者が入手した元来の〈アダムの系図〉は〈固有名詞のアダムの系図〉であったが、その〈固有名詞のアダムの系図〉に普通名詞のアダム〈人〉を入れ、この〈固有名詞アダムの系図〉は〈普通名詞アダム=人の系図〉でもあるとした。
つまり、ここで〈5章1後半~2〉を加え入れた動機は、ここ創世記5章に掲載する〈アダムの系図〉は〈固有名詞アダムの系図〉でありつつ、同時に〈普通名詞のアダム=人の系図〉でもあること、それを言うために〈5章1後半~2〉を加え入れた、そうおもわれるのである。
ところで、〈系図〉とは、言い換えれば、〈伝承〉ということである。あることが次へと伝えられ、そしてまたそれが次へと伝えられる、その伝承のつながりを示すものが〈系図〉である。
聖書の場合、〈伝承〉とは神から〈委託されたもの〉が伝えられてゆくことである。この〈アダムの系図〉の場合も、アダムに委託されたものが、アダムから次へと伝えられてゆくことを示すものである。
そうすると、ここに掲げられている「アダムの系図」は〈固有名詞のアダムの系図〉であるからして、固有名詞のアダムに委託されたものがあり、固有名詞のアダムはその委託されたものを伝えてゆく責任を与えられている、ここはそのように言われていることになる。
ここはしかし同時に、この「アダムの系図」は〈普通名詞のアダムすなわち人の系図〉であるからして、普通名詞のアダムすなわち人に委託されたものがあり、普通名詞のアダムすなわち人はその委託されたものを伝えてゆく責任が与えられている、ここはそのように言われていることになる。
原初史物語の作者がここで〈系図〉という表現形式を用いたのは、〈委託されたものがあり、それを伝えるという責任が神から委託されているということ〉、それを言うためであったと言ってよいとおもわれるが、そうすると、ここで言われていることを綜合して言うと、
固有名詞のアダムには委託されたものがあり、固有名詞のアダムはその委託されたものを伝えてゆく責任にあるが、このことは同時に普通名詞のアダム、すなわち〈人〉にもあてはまる、すなわち人は委託されたものを伝えてゆく責任にある。ここで言われていることはそういうことであるであるとおもわれる。
そこで、次の問いが直ちに生じる。すなわち、伝えてゆくべき〈委託されたもの〉とは何であるか。
原初史物語の作者は何であると言っているか。ここで〈5章1後半~2〉にしるされているところを読んでみると、
5章1後半
「神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ」。
ここで原初史物語は〈人は神に似せて造られている〉と語る。この原初史物語の語りは次のことを意味している。すなわち、〈人は神に似せて造られている〉これが伝えてゆくべき〈委託されているもの〉である。
この伝えてゆくべき〈委託されたもの〉、これを伝えることは固有名詞のアダムに与えられている責任であるが、同時に普通名詞の人にも与えられている責任である。原初史物語はここでこう語っている。
ところで、この伝えてゆくべく人に委託された〈神の似姿〉、これが何を意味するかについて原初史物語はすでに創世記1章において述べた。ここで、原初史物語がそこで語っている〈神の似姿〉について、その要点となるところを振り返っておくと、人が〈神の似姿〉に造られたということは神の創造した生きとし生ける全てのための食べ物を配慮するということである。
そうすると、原初史物語が五章において人に伝えてゆくべく委託されたものは〈神の似姿〉であると述べたとき、創世記1章において述べたこと、すなわち人には神の創造した生きとし生ける全てのための食べ物を配慮することが委託されているということ、それをここでいまいちど述べた、ここはそう読んでよいとおもわれる。
さて、ここで原初史物語はさらに伝えてゆくべく委託されたものについて語る。
5章2
「男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。」
原初史物語はここで、は〈男と女に創造された〉と語る。この語りも創世記1章においてすでに語っていたことであった。ここでそれを振り返っておくと、この「男と女に創造された」が意味するところは、神の祝福としての「産めよ、増えよ、地に満ちよ」を担うということ、であった。(そこではこの「男と女に創造された」は文脈上、神の祝福としての「産めよ、増えよ、地に満ちよ」を担うという意味であった。)
そうすると、ここはこうなろう。すなわち、原初史物語はここでこう語った。人には伝えてゆくべき委託されたものがある、それは神の祝福としての「産めよ、増えよ、地に満ちよ」を担うということであった。
ここで、原初史物語が〈5章1後半~2〉を加え入れた動機、それが明らかになったかとおもう。
原初史物語は「アダムの系図」をなにゆえ掲載するか。その動機は人には神から委託されているものがあるということを言うためである。その委託されているものが何であるか、それをいまいちど言うと、人は神の創造した生きとし生けるもの全ての食べ物の配慮をすること、そして神の創造した生きとし生けるものが地に満ちるようになること(この二つのことが〈神の似姿〉の意味)。
ここでわたくしの推察を言うとこうなる。原初史物語は「アダムの系図」という素材は用いるに値すると考えた。〈系図〉という表現方法によってこそ言い表し得るものがある。すなわち、人には伝えるべきものがあるということ、それが人には委託されているということ、それを言い表す表現方法の一つが〈系図〉であるということ。原初史物語はこの表現方法を用いてメッセージを発信した。原初史物語のしるす創世記五章の「アダムの系図」はこのように読めるし、このように読むことが適切であると、わたくしにはおもわれる。
2 〈ノアへと至る系図〉
創世記5章の〈アダムの系図〉は系図の最後に結びとして〈ノア〉を登場させている(5章29)。ここでこう言ってよいとおもう。この創世記5章の〈アダムの系図〉の目的は〈ノア〉を登場させることにある。このことはすでに述べたことであるが、いまいちど確認しておきたい。
ところで、創世記五章にしるされた「アダムの系図」はアダムからノアへの継承を語っているのだが、いったい何が継承されると言っているのであろうか。
この後の創世記六章から始まる物語によれば、神がノアに委託したことは神の創造した生きとし生けるものの命が壊滅させられる事態の中でその命を保全するということであった。この命の保全ということは神の祝福の「産めよ、増えよ、地に満ちよ」を担うということであった。ということは、ノアがアダムから継承したことはこの神の祝福の〈地に満ちよ〉ということであった。
その命の保全のために造られたのが「箱舟」であるが、神はノアにこう命じている。「食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼ら(箱船に乗船する生きとし生ける全てのもの)の食べ物としなさい。」(6章21)。
これは箱船に乗船するノアに対して生きとし生けるもの全てのための食べ物の配慮が委託されたことを述べるものであるが、これはノアが〈神の似姿〉の継承委託を受けたということを意味すると解してよいだろう。
そう解され得るのはノアがアダムから継承したことは人が〈神の似姿〉に造られたこと、すなわち生きとし生けるもの全ての食べ物について配慮すること、これでであったからである。
以上述べたことを総括して言うと、こうなろう。
原初史物語が創世記五章の〈アダムの系図〉を掲載した意図はノアを登場させるため、すなわちアダムに委託された生きとし生けるもの全てのための食べ物の配慮を継承するノアを登場させるため、そしてアダムに委託された神の祝福〈地に満ちよ〉を継承するノアを登場させるため、そこにあったということ。これが「アダムの系図」を原初史物語に掲載する目的であった。
ここで、月本昭男『創世記Ⅰ』が創世記五章の「アダムの系図」のところで述べている〈焦点化〉と〈普遍化〉について紹介することにしたい。それは聖書の思想を把握するうえで重要な概念を提供するもの、聖書を貫いている特徴を全体として把握するうえで重要な概念を提供するもの、そうおもわれる。(ここでの紹介はわたくしの言い方での紹介になるが。)
この〈アダムの系図〉には〈焦点化〉がある。〈アダムの系図〉はその結びにノアを登場させている。創世記10章のしるすところによれば、ノアから諸民族が起り、さらに諸民族が地上のいたるところに広がるとある。この創世記の記述はノアがその基点となっていることを示しており、ここにはノアに焦点を合わせる〈焦点化〉がある。この創世記の記述は、同時に、〈普遍化〉がある。ノアから諸民族が起り、さらに諸民族が地上のいたるところに広がるとする、この創世記の記述には〈普遍化〉がある。
この〈焦点化〉と〈普遍化〉は聖書の歴史記述の特徴である。聖書の歴史記述は、〈焦点化〉と〈普遍化〉が同時に関わり合いつつ展開するものとなっている。聖書の歴史記述によれば、神の救済は〈モーセ〉がその役を担った。ここには〈焦点化〉がある。ここに始まった神の救済はその役を〈イスラエル〉が担った。〈イスラエル〉は神の救済について全ての人々に証する役を担うこととなった。ここには〈焦点化〉があると同時に〈普遍化〉がある。
新約聖書によれば、神の救済は〈イエス・キリスト〉において決定的啓示となった。ここには〈焦点化〉がある。ここに始まった神の救済はその役を〈キリスト教会〉が担った。〈キリスト教会〉はこの神の救済を全ての人々に証する役を担うこととなった。ここには〈焦点化〉があると同時に〈普遍化〉がある。
〈焦点化〉は〈普遍化〉に向かってゆく基点である。〈焦点化〉はそれ自体が目的となることはない。〈焦点化〉は〈普遍化〉に向かってゆく基点、そこにその存在意味がある。〈普遍化〉は〈焦点化〉から始まる。〈普遍化〉は〈焦点化〉から始めないと〈普遍化〉に至らない。聖書の歴史記述はそのことを示している。聖書の記述は〈焦点化〉と〈普遍化〉が同時に関わり合いつつ展開するものとしてしるされている。このように言うことができるとおもう。
創世記5章の「アダムの系図」は〈焦点化〉をおこない、〈普遍化〉のための準備をしているが、これは聖書の歴史記述の特徴を示すものなっており、その意味で創世記5章の「アダムの系図」は聖書の歴史記述の最も重要なところを担っている。このように言うことができるとおもう。