受難節の中で
今は受難節の中、イエスの十字架死について考えているところを、前号と重なるが、書くことにしたい。
十字架死はローマ帝国に対する国家反逆罪を犯した者への最も重い刑罰。イエスはこの十字架死に自ら進んで向かって行ったという印象を福音書の記述から受けるが、事実その通りであったとすれば、イエスはなぜそうされたのか。
この「なぜ」の問いに対してイエスの十字架死は「罪の償い」のためであったが提示された。これが教会の中心的教理となる。今の私はこれを受け入れていない。理由はイエスを遣わした神が罪の償いを要求する神であるとは思えないし、イエスが罪の赦しを宣言するとき罪の償いを要求していないからである。
私がイエスの十字架死についての解釈として注目するのは最初期キリスト教のパウロの解釈である。
彼はイエスの十字架死において「バプテスマ」が起こったとする(ローマ書6章)。すなわち、これまでの自分が死ぬということが起こったとする。彼の場合の「これまでの自分」とは「律法をおこなうことによって義を得るとする自分」であるが、この自分が死ぬ、これがイエスの十字架死において起こったとする。
ではどうしてイエスの十字架死が律法をおこなうことによって義を得る自分を死なしめることになったのか。この問いに彼は次のように答えると思う。イエスの十字架死は律法によって義を得る生き方とは真逆のこと、この真逆のことが律法によって義を得る生き方の自分を砕き死なしめた。
彼はこの砕かれ死なしめられた体験をふまえて、イエスの十字架死はバプテスマが起こったことであると説いた。
イエスが十字架死に向かって行ったのはなぜか。私には謎であり続けている。しかしイエスの十字架死を伝える福音書物語が私を砕く、これは明らかであって確実に起こる。本年も受難節が砕かれる時となるよう、心したい。