問 題
新約聖書はナザレのイエスにおいて罪からの自由が実現したと証言しております。ある人はその罪について高慢と怠慢と虚偽の罪であると解説しています。それをかいつまんで紹介しますと、
ナザレのイエスを十字架刑につけた当時の権力者たちについて言い得ることは高慢の罪が現れ出たということ。また、イエスを十字架刑に追い込んでゆく過程で、イエスを十字架刑にすることは正当なことではないとしてこれを止める努力をする者が当時の権力者たちの中にいなかったが、この過程で現れているのは怠慢の罪であるということ。さらに、イエスを十字架刑に値するとするために当時の権力者たちのつくった告訴状は虚偽のそれであったということ。この罪についての解説は適切なものとおもわれます。
わたしたちは、ナザレのイエスにおいて罪からの自由が実現したということを聴くだけではぼんやりしていますが、いま紹介した罪についての解説を聴くと新約聖書の扱う罪が今日の問題であると分かってまいります。
それを言いますと、
この国の政権についている人たちがあらわに示すおごりは新約聖書の言う高慢の罪に相当する。また、政権についている人たちは為さなければならないことについて無作為であり、これは新約聖書の言う怠慢の罪に相当する。さらに、今この国の政権についている人たちには嘘が多過ぎる、これは新約聖書の言う虚偽の罪に相当する。政治権力にこの類のことはつきまとうものでしょうが現政権はその程度を超え過ぎている。
聖書を読んでいる者の責任として、今日の社会に向かって聖書からして発言すること、それをおろそかにしてはいけないと自ら言い聞かせている。