弱 さ
鷲田清一『老いの空白』(岩波現代文庫)から教示されることが多い。今号はその一つを書いてみよう。(以下の文章は同書から教示されたところをわたくしの言い方でとなっている。)
「老いる」ということは「できる」世界から「できない」世界に入ることであると言われ、それは間違いのないところだが、人はその「できない」世界に入ったとき、分かってくることがある。それは「自由」ということについてである。
近代という時代に獲得された自由は自分のことは自分で決定できる自由、すなわち自己決定の自由、また、自分のことは自分で始末をつける自由、すなわち自己管理の自由、さらには、自分のことは自分で責任をもつ自由、すなわち自己責任の自由。
この近代という時代に獲得された自由は「自立」の自由と呼ばれるが、この「自立」の自由が可能であるには条件が要る。それは人間が「強い」ときという条件。これがないと、この自由は可能ではない。
ところで、もしこれだけが人間の自由であるとすれば、「老いる」ということは自由を失った「惨めな」存在となる。だが、自由とはそれだけであろうか。
近代という時代に獲得された自由は考えてみると、人間が「強いもの」に従っているのであって自由とは言えないのではないか。自由とは、実は「弱さ」に従うとき、そのとき自由と言える、そうではないか。
人間とは相互依存の存在、人間は他のものの助けなしに生きることはできない「弱い」存在。したがって、人間と人間の関係の世界、すなわち社会は人間の「弱さ」を基底にして組み立てなければならない。
だが、近代という時代は「強さ」に従う自由(いや屈従)が世界を覆い、その自由しかないかのような時代であった。近代の人間は自分の意のままになるもので周りを固めてきた。が、この「こわばり」から「ほどかれる」、それがなければならない。「弱さ」に従う自由をもたなければならない。と、このように哲学者・鷲田清一は訴えてやまない。
わたくしは、この訴えにおおいに共鳴し共感する。