教会の信仰告白

2018年03月04日 10:30

 新年度は中野桃園教会の礼拝おける「信仰告白」について検討することとなった。教会は〈イエスはキリストである〉と信仰告白するところであるが、じつはこの後に難しい問題が待っている。この告白に言われている〈キリスト〉をどう理解するか、これが簡単なことではない。

イエスのキリストであることを知るため四つの福音書があるが、そのキリスト理解は多様であり、それを一つにしてしまうことはできない。わたくしは礼拝のメッセージでその多様さを活かしてゆくことに努めている。

わたくしはその際、尊重しているものがある。それは古代の教会がイエスのキリストであることの理解において紆余曲折を経てようやく辿り着いた信仰告白〈イエスは真の人であり真の神である〉、これである。

わたくしは福音書の多様なキリスト理解をこの古代教会の信仰告白にあてはめてしまうことはしない。が、その多様なキリスト理解のその根本にあるものを把握する試みをするとき、この古代教会の信仰告白は有効であると考えている。

ここでわたくしの理解を述べてみよう。四つの福音書がそれぞれ多様に描いているキリストなるイエスは〈真の人〉を体現している。別言すると、イエスは〈真の人〉の対極にある〈偽りの人〉を明るみに出した。実際どの福音書にもイエスに対し暴力を加える〈偽りの人〉が明るみ出されている。

また、四つの福音書がそれぞれ多様に描いているキリストなるイエスは〈真の神〉を体現している。これも別言すると、イエスは〈真の神〉の対極にある〈偽りの神〉を明るみに出した。実際どの福音書にもイエスに対し暴力を加える〈偽りの神〉が明るみに出されている。

教会が〈イエスはキリストである〉と信仰告白するとき、この古代教会の信仰告白は参照されてよいとおもう。教会の信仰告白の議論はここから始めるのがよいのではないか、とわたくしは考えている。