教会の宣教
教会に委託されていることは福音の宣べ伝えである。福音とは喜びの知らせ。教会は喜びを宣べ伝える。新約聖書の福音書にしるされているイエスのもたらした喜びは何であったか。
一つは「癒し」である。教会がイエスの教会であるとき教会には「癒し」が委託されていると自己を理解する。イエスの教会は「癒し」がおこなわれるよう懸命になる。イエスの教会に集う者たちは互いに「癒し」をおこなう。その意味で互いに医師に成り合う。
新約聖書の福音書によればイエスのもたらした喜びのいま一つは「共なる食事」である。教会がイエスの教会であるとき教会には「共なる食事」が委託されていると自己を理解する。イエスの教会は「共なる食事」がおこなわれるよう懸命になる。イエスの教会に集う者たちは「共なる食事」が全地で実現するようはげむ。
教会に委託されていることはこのようなこと、これが教会の宣教である。
ところで、新約聖書の福音書には受難物語がある。そこにも福音の宣べ伝えがなされているとみなくてはならないであろう。では福音書の受難物語において宣べ伝えられている福音すなわち喜びとはどういうものであるか。そこにしるされていることは喜びではなく悲しみだけではないのか。この問いに対する答えを得るには受難物語にあらわれている罪という言葉で言い表すほかない人間の問題について考えなければならない。
受難物語においてあつかわれている罪の人間は弟子たち、イエスに招かれ行を共にしたがイエスを棄ててしまう人間。この人間の罪の問題が克服されるのでないと真の喜びは起こらない。罪の人間のいま一つは権力者たち、自分たちを保身するためイエスを排除し抹消する人間。この人間の罪の問題が克服されるのでないと真の喜びは起こらない。しかし、はたしてこの二種の人間の罪が克服され真の喜びが起こるなどということはありうるだろうか。人間の現実はありえないことを示し続けている。しかし、新約聖書の証人たちは「ありうる」、ただしキリスト・イエスにあるならばと語る。
この「とんでもないこと」をあかしするのが教会の宣教。人知をはるかに超えてはたらく霊の支えと導きがあることを信じ、これにはげみたい。