正義を疑え
このたび贈呈いただいた『生きたかった 相模原障害者殺傷事件が問いかけるもの』(大月書店刊)を読ませていただきました。この問題について無知も同然のわたくしに深い示唆と教示が与えられました。わたくしは聖書を読んでいる教会にはこの問題について言葉を発してゆく責任があるとおもっておりますので今号もそうしてみることにいたします。
聖書の教えによって言うと、人の命は別なもので取り替えることができません。人は固有の存在であるからです。これに対し事故で壊れた自動車の場合これは取り換えができます。それが「物」であるからです。人の命は人が固有の存在であるゆえその命は別なもので取り替えることはできません。人の命を奪ったら償えるものではありません。人の命を奪うということは何をもってしても償い切れないことをするということであります。人の命を奪った場合、それをした者の命をもって償わせるという考えがありますがそれは成り立ち得ません。奪った人の命は固有であって別なもので取り替えることができないからです。これが聖書の教えるところです。
ところで、人の命は何をもってしても取り替えることができないとする聖書の教えを踏みにじるものが「正義」であります。別なものに取り換えのできない人の命を奪うのは実は「正義」なのです。新約聖書のヨハネ福音書に「カヤパの論理」と称されるものが出ております。その論理は「多数」を保護するため「少数」が犠牲になるのはやむを得ないとするものです。これが「正義」として通用し、この「正義」によってナザレのイエスは十字架刑にて命を奪われました。
何をもってしても取り換えのできない償い切れない固有の人の命を守るためには「正義」を疑うことから始めなければならない。「多数」を保護するため「少数」が犠牲になるのはやむを得ないとするこの「正義」を疑う、この疑いが起こらなければならない。