祈り
昨年2015年ノーベル文学賞を受けたのはスベトラーナ・アレクシェービッチ。彼女の作品『チェルノブイリの祈り』を読んだ。
「チェルノブイリ」の原子力発電所が破壊したのは1986年4月26日三十年経った。この作品はこれに関わる人びとの証言を集めたドキュメンタリー文学。
この作品は消防士の妻の証言から始まる。破壊した原子力発電所の炎上する火を消すべく現地に向かい被曝した夫は病み衰え萎え死んでいった。彼女は夫に寄り添い看取り続ける。懐妊していた彼女は女の子を産む。が、四時間後に娘の死が告げられる。放射能がこの子に集中していた。彼女にこのときこう告げられる、娘をわたせない、と。
彼女は言った、「わたさないってどういうこと? 私のほうこそ、この子をあんたたちにわたすもんですか! 科学のために娘を取りあげるつもりね! 私はあんたたちの科学なんて大きらい。憎んでいるわ! 科学は最初に夫をうばい、今度は娘まで……。わたすもんですか! 自分で埋葬してやります。夫のとなりに。
わたくしは「チェルノブイリ」に関するものは読んでいたが、この作品のことは知らずにきた、この作品の著者についてまったく知らずにきた。昨年新聞の報道で知り、今になってようやくというしだいである。
先日テレビ報道で涙を流している小泉元首相が映し出されていた。それは彼が東日本大震災の救援にかけつけてくれた米軍の兵士たちが福島の原子力発電所から飛散した放射能に被曝し重症に至っている、そのかれらに面会したときのことであった。
彼がこの被曝の問題で涙を流す機会はこれまで多くあったはずであろう。彼がこれまでどうであったか問わない。人間は気がついたとき、方向転換すればよいからである。より重要なことは方向転換した後その方向を歩み続けることである。これは他人事ではない、わたくしの問題であり課題である。
本書の題名は『チェルノブイリの祈り』とあり、ここに「祈り」という言葉がある。著者は本書のためにどれだけ多くの人たちにインタビュウし、事の重さのゆえに沈黙するほかない人たちが言葉を発するに至るまでじっと待ち続けた、そうであったと思う。著者はそれを「祈り」という言葉で言い表したのではないか。わたくしはこの点でも示唆を受けたしだいである。