老 い

2016年10月02日 10:30

この国の哲学者、鷲田清一の『老いの空白』から示唆を受ける。示唆されるところをわたくしの要約で紹介する。

今日の日本社会において〈老い〉がまるで無用な「お荷物」であって、その最終場面でまず「介護」の対象として意識されるという、そんな惨めな存在であるかのようにイメージされるようになったのには、それなりの歴史的経緯がある。それは生産と成長を基軸とする産業社会にあっては、停滞や衰退はなんとしても回避されなければならないものとなった、この歴史的経緯による。産業社会の価値基準からすると〈老い〉は「できる」から「できない」への移転であるが、この〈「できる」と「できない」〉は〈「する」と「ある」〉という表現で言い直すことができる。産業社会の価値基準からすると〈老い〉は「する」からの退却、ただ「ある」だけの存在となることである。

そこで哲学者鷲田清一はこう述べる。人間は「できる」から「できない」に移転したとき、また「する」から「ある」になったとき、人間とはそもそも何であるかについて考えるようになる。人間が産業社会の価値基準で判断される、それだけが人間ではないということを知るに至る。そして人間とは「いるだけでいい」「あるだけでいい」存在であることを知るに至る。人間は〈老い〉に至ったとき、このことを知るに至る。人間は〈老い〉に至って「できる」から「できない」へと移転したとき、「する」から「ある」になったとき、人間の本来を知るに至る。この哲学者鷲田清一の言うところに真理があるとおもう。

キリスト教信仰の中心教理を新約聖書のローマ書にしるされているパウロの語るところに見出すことにキリスト教徒の大方の賛成が得られるであろう。

〈人が義とされるのは行いによるのではない、そうではなく神の一方的な恵みとして与えられる義認を受けることによってである。〉

このキリスト教の中心教理が言っていることは、人が生かされるのは「できる」においてではなく、「する」においてではなく、そうではなく「できない」において、「ある」においてである、こう言い換えることができる。また、このキリスト教の中心教理の言っていることは、人は「いるだけでいい」「あるだけいい」存在であるということ、こう言い換えることができる。

この国の今の政府はこの国を「一億総活躍」社会にすると言っている。わたくしはその「一億」の中に入るつもりはないし、「できる」「する」を押し付けるこの国の政府は困ったものだと見ている。