裁判員制度

2014年10月05日 10:30

9月30日の夕刊の記事が気になった。その記事は「裁判員制度は合憲」の見出しで福島地裁判決を伝えるもの。判決は裁判員制度に従って裁判員となった方が国に損害賠償を求めた訴訟に対する判決。判決はその方の請求を棄却した。

記事によると、その方は強盗殺人事件の裁判員裁判で遺体の写真や被害者の助けを求める119番の録音を見聞きし、その際の場面が突然思い出される「フラッシュバック」や不眠などを伴う急性ストレス障害になった。

福島地裁の判決はその方の裁判員制度を違憲とする主張を認めず合憲の判断を示した。判決は「原告が裁判員を務めたことと、ストレス障害を発症したことには、相当因果関係があると認められる」としたが、「裁判員の辞退を弾力的に認め、日当を支給するなど負担軽減の措置が取られており、国民の負担が合理的な範囲を超えているとはいえない」と述べ、憲法18条が禁じた意に反する苦役に当たらないとした。

私は「裁判員制度」に関心を持ち続けてきた。その理由はこの制度には国家による強制があると見るからである。私がそう見るのは次の理由による。当局が行う裁判員を選任する手続きの過程で呼び出しに応じなかった者に対し過料を科すことを法によって規定。私の記憶では、過料は10万円。この罰金に当たる過料を科す法に強制を見るのは普通の感覚であると私は思っている。

 当局のこの法規定の実際の運用は柔軟であるとのことである。しかし、この法に強制の規定があり、国民はこの強制の下にある。裁判員制度によって裁判員になることは強制されている。私は法の強制性をいかなる場合にも否定する立場にいるわけではない。しかし、「裁判員制度」が要求する強制に私は否定である。その否定の理由こうである。

 私がその強制に従って裁判員になったとする。判決は多数決で決まる。判決の多数が死刑としたとき、それとは異なる見解の私もそれに従わざるを得ない。私はこういったことになる強制に否定の立ち位置を今後も続けるつもりである。

 国家の定める法に従って死刑判決に加わる強制をやむなきこととしていると、国家が行うことを定めた戦争で人を殺し、死刑にすることに抗うことができなくなるのではないか。それとこれとでは次元が違うとは私には思われないのである。