創世記 1章1 「初めに、神は天地を創造された。」
原初史物語の冒頭で、まず留意したいところは、物語作者が神の創造したものに「天」があるとしているところ。
この「天」は、この後しるされているが、「蒼穹・おおぞら」のことを指している。この「天」(蒼穹・おおぞら)であるが、原初史物語の時代の人々にとっては「分からない所」であったという。そうすると、原初史物語の作者が「神は天を創造した」と語ったとき、「神は人間には分からない所を創造した」と語ったことになる。
ここではじめに述べなければならないことがある。わたくしはこの「天」というところに関心を持っていなかった。が、ある文章を読んで、それではいけないとおもうに至った。まずはそのあたりのところから述べることに。
わたくしは「聖書は核を予見したか」と題する文章を読んだ。この文章の執筆者は、高木仁三郎という方。高木仁三郎は物理学者で、長年のあいだ原子核の持つ問題性を明らかにし、原子核利用の廃絶を訴えてきた方である。
ここで、わたくしが「天」に関し問題の提起を受けた、高木仁三郎の「聖書は核を予見したか」を紹介する。
原子核というのは物理学の観点から言うと「天」に属しており、「地」に属していない。「天」という領域は「原子核」の反応が繰り返されている領域で、そこでは物質は消滅と生成を繰り返し、生命というものは育たない。これに対し「地」という領域は「原子核」の反応が安定的な状態に保たれている領域で、それゆえ、「地」という領域は生命が育つ。
これまでなされてきた「原子核」の開発は、この「地」において保持されている原子核反応の安定を人間の手によって破壊するということである。これは「地」において可能となっている生命の成長を不可能にするということである。
今日人間は欲望の膨張を続け、原子核の開発によって巨大なエネルギーを獲得したが、これによってこの地球を全滅させるところまで追い込んでしまった。こうなったのは人間が手を出してはいけない「天」の領域に人間が踏み込んだからである。
聖書の初めの創世記には「神は天と地とを創造した」とあり、「天」についての言及はなされているが、この「天」について十分に論究しているであろうか。聖書の創世記は「人間とは地を守る存在である」と言っているが、そうであるなら人間は「地」における原子核反応の安定を保持する努力をなすべきであって、原子核反応を人為的に起こすことは絶対にすべきではない。はたしてそのようなメッセージを示すことができる思想を聖書は持ち得ているか、疑問である。
わたくしはこの高木の文章を読んだとき、これまでの教会の神学教師たちの「天」について述べているところを思い出した。それは次のような内容のものである。
神が創造した被造物には人には分からない所があり、人は神が創造した被造物の全てを知ることはできない。人は神が創造した被造物について全てを知ることができると思い上がってはならない。
気付いたことだが、「天」に関して、これまでの教会の神学教師たちの述べるところと、高木仁三郎の言うところとには重なり合うものがある。それは「この地の世界には人間が手を出すべきでないものがある」、この点で両者は共通。これは興味深いことである。
これまでの教会の神学教師たち、それはルターやカルヴァンたちであるが、かれらが聖書から聴き出したところと、現代の物理学者の高木仁三郎の述べるところとに重なり合うものがあり共通するところがある、ここには、興味深いということを超えて、深く考えなければならないことがあるのではないか。
そこでわたくしは、創世記の原初史物語の冒頭に「天」についての言及がある、このことの意味を考えてみようと思い立った。そこでわたくしは、「天」への言及が聖書においてどのようになっているか、さしあたり、まずは新約聖書ではどうなっているか、探ってみることにした。
はじめに注目するのは使徒言行録の1章。そこには、復活のイエスは或る期間地に存在したが、その時が終わって「天に上げられた」とある。これは復活のイエスが人の手の届かない所に行ったことを意味している。使徒言行録によれば、復活のイエスは「天」にあり、イエスについて来た者たちは「地」にある。つまり、両者の間に距離があるとする。この使徒言行録の言うところは、かなり重要なことではないかとおもわれる。
次に注目するのはフィリピ書2章。そこには、最初期キリスト教の信仰告白がしるされている。十字架死の後イエスは「高く上げられた」とある。この「高く上げられた」は「天に上げられた」と解してよいだろう。ここでもイエスは人間の手の届かない所に行ったということになる。
この信仰告白によれば、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」ここで注目したいのは、「天上のもの」がイエスの御名にひざまずき、「イエス・キリストは主である」と告白するところ。ここで「天上のもの」がどのようなものであるかはともかくとして、「天」に存在するものが「イエス・キリストは主であると告白しているところ」、ここもかなり重要なところではないかとおもわれる。
さらに注目しておきたいのはエフェソ書6章。そこには、キリスト教徒への勧めがなされている。「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」ここには、「悪の霊」が「天」において支配をおこなっていると言われているのだが、ここで注目しておきたいのは、この「天にいる悪の諸霊」がどのようなものであるかはともかくとして、この天の領域を浸食している悪の霊に対し闘うことが、キリスト教徒への勧めとして語られているところ、ここもかなり重要なところではないかとおもわれる。
さきほど、現代の物理学者高木仁三郎の聖書に対する批判を紹介した。その批判は聖書では「天」についての追究がなされていないであった。この批判をわたくしは真摯に受け取る。わたくしは、さしあたり新約聖書の「天」に関し言及しているところに注目してみた。わたくしの今後の課題は、この新約聖書の「天」に関する言及を手掛かりにして、「天」という事柄について考えてゆくことにあるとおもっている。