マルコ福音書から(2) 1章9~11 〈天と地〉
この福音書の主題は「神の子イエス・キリストの福音」。
さきほど読んでいただいた物語からイエスが登場、主題が始まる。
物語はイエスがバプテスマを受けた物語。物語によれば、イエスがバプテスマを受けた時、天から声があった。いかなる声であったか。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
ここでイエスは「天にいます方」すなわち「神」から「愛する子」と呼ばれた。すなわち「神の御子」と呼ばれた。これをイエスは受諾した。
福音書著者は、ここで、イエスが神から「わたしの愛する子」すなわち「神の御子」と呼ばれ、これをイエスが受諾したことを描いた。この描写の目的はもちろん「イエスが神の御子」であるということを証言することにある。が、それに次いでこういう意図がこめられているのではないかとわたくしは推量する。すなわち、この証言を受容するということは「神の御子イエス」についてゆく者は「神の子たち」の一員となるということ、そしてその「神の子たち」に応ずる使命の委託がなされるということ。
このわたくしの推量は最初期キリスト教伝道者パウロの記したローマ書八章を根
拠にしている。
パウロによれば、キリストにつける者は「神の子たち」とされた者、この「神の子たち」とされた者は「神の御子イエス」がなさったことと同じことをする。すなわち神に向かって「アッバ父よ、と呼ぶ」。
この「アッバ父よ」はイエスがゲッセマネで祈った時、イエスが十字架死受諾をめぐる苦闘の中で発せられた祈りの言葉。パウロによれば、「神の子たち」とされた者は「神の御子イエス」の祈り「アッバ父よ」を祈る者となる。すなわち、イエスの後に続いてイエスの苦闘に加わる者。
この後パウロが述べている言葉。
神は苦しんでいる。なぜなら神の造られたもののすべてが虚無に陥っているから。
虚無とはどういうことであるか。それは造っても壊されてしまう。造っても壊されてしまうので、造ることが虚しくなる。造ることが虚しくなるだけでなく、生きることが虚しくなる。今この国では、良い食べ物を精魂こめて作っても棄てるほかないということが生じている。ここに生じている状況を最も的確に表現する言語は「虚無」、これであると思う。この虚無を生じさせているのは言うまでもなく人間。人間がこの地上世界の生きとし生けるもののすべてを壊す。
ローマ書八章のパウロの文章は、地上の生きとし生けるものの苦しみを「虚無」にみているという点で、この虚無の事態を神が苦しんでいるとしている点で、この彼の洞察は的確にして深いところに達していると思う。
パウロはここで比喩表現を用いる。
彼によれば、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」すなわち「神の御子」と呼ばれこれを受諾したイエスは、子が親の財産を継承するように、神の財産を相続する、すなわち神の造られたすべてを相続する。その相続する神の造られたものは虚無を強いられている。「神の御子イエス」は強いられた虚無にある神の造られたすべてのものを引き受ける方。
わたくしはここで試みに、福音書のイエスの受洗の物語、すなわちイエスが「神の御子」を受諾した物語をパウロのローマ書八章の言葉で解してみた。
この試みで、すなわちローマ書八章のパウロの言葉をもって福音書のイエスの受洗の物語を読み解くと、こういう使信がわたくしには聴こえてくる。虚無を強いられている生きとし生けるものの苦難に連帯せよ!
きょうの福音書物語に語られているいまひとつのことについても読んでおきたい。
福音書著者はイエスが天にいます方との関わりにあることを明らかにしたが、それと同時にイエスが地に関わる方であるということも明らかにしている。
ここに「イエスはガリラヤのナザレから来て」と記されている。
ここで問うておきたいことがある。
それは「ガリラヤ」「ナザレ」を明記した意図についてである。
この地名「ガリラヤ」「ナザレ」が意味あるものとして登場するのは、この福音書の一四章である。
そこには、ペトロがイエスを知らないと言ってしまう場面が描かれている。イエスは捕縛され大祭司官邸で裁判にかけられる。ペトロはその成り行きを知ろうとしたのであろう、官邸の中庭に入った。ペトロはそこにいた者からこう言われる、「あなたもあのイエスと一緒にいた。あのイエスの仲間の一人だ。」その時ペトロはそれを強く打ち消し、「あなたが言っているそんな人のことは全く知らない。」
この場面の描写をあらためて読み直してみると気付くことがある。
ここでペトロに向けられた言葉は詳しくみてみるとこうである、「あなたもあのナザレのイエスと一緒にいた。」「確かに、お前はあの連中の仲間だ。お前もガリラヤの者だ。」
ペトロがここで打ち消したことはイエスと関わりがあるということについての打ち消しであるが、詳しくみてみると、ペトロが打ち消したのは、彼に向けられた言葉「あのナザレのイエスと一緒にいた」に対して、また、「お前はあの連中の仲間だ。お前もガリラヤの者だ」に対してであった。
この場面は「ガリラヤ」「ナザレ」という地名への関わりを否定したペトロを浮き彫りにしている。ペトロはイエスがガリラヤのナザレの出であることは承知しているし、ペトロ自身ガリラヤの出であるからして、ここでのペトロは自分のガリラヤ出自を否定し、そしてイエスのガリラヤ人なることを否定したことになる。この福音書一四章のこの記述は何を言おうとしているのであろうか。
ここでペトロが「ガリラヤ」「ナザレ」との関わりを躍起になって否定しているところから推し測ると、この地に対し否定的見方が存在したと言ってよいだろう。この見方は差別的社会通念にほかならない。そうすると、ここで扱われている問題はペトロが差別的社会通念に捕らわれていたという問題であったと言ってよいのではないか。
ペトロはイエスについてゆきイエスのすることをつぶさに見てきた。彼はこの中で差別的社会通念を捨てることを学ぶ機会はあったはずである。しかし、ペトロは差別的社会通念を捨てる、この最も学ぶべきことをしてこなかった。ペトロはイエスのあとについてゆきイエスのすることをつぶさに見たこの人生の時間、最も為すべきであった学びをしないまま無為に過ごしてしまった。
福音書はこの後、イエスの関わる地がガリラヤであることを記している。
しばらくの間この福音書を読んでゆく。
わたしたちはこの読みを通して、イエスの後についてゆき、イエスのするすべてのことをつぶさに見、学ぶべきことを学んでゆきたい。