1517年
わたしたちの教会はプロテスタント教会に属しています。プロテスタントとは抗議をする者といった意味ですが、これはルターがローマ・カトリック教会の一員として問題の提起をしたことからきています。
ルターが言ったことを端的に言うとこうなるかとおもいます。人の義とされるのは神の恵みによってのみである。これに対しローマ・カトリック教会が主張したことはこうなるかとおもいます。人の義とされるのは神の恵みによることはもちろんだが、神は恵みによって義とされた者が愛の行為をする者になることを期待している、そうなることによって神の恵みは完成する、ルターのように《のみ》と言ってしまうと、人間の応答としての愛の行為はどうでもよいものになってしまうのであって、ルターの言うところは退けられねばならない。実際ルターは破門された。
しかしルターは人の義とされるのは神の恵みによってのみの《のみ》をつらぬいてゆきました。このルターの意味は今日おおきいと考えます。
今日、人は役に立つかどうかということで価値判断され、役に立たないとされた者は脇に置いてゆかれるに至っています。これは人間が物扱いにされ、人間であることが否定されていると言わなければなりません。この人間であることの否定を止める思想は人の義とされるのは神の恵みによって《のみ》にあるとしたルターにあるとわたくしは考えます。
しかしわたくしは、ルターの教えを知っているだけで自分の実情は人を役に立つかどうかで価値判断する価値観の毒におかされているため、人間であることが否定される今日の状況に対し抵抗することができないでいると言わざるをえないでおります。
ルターが人の義とされるのは神の恵みによってのみと叫んだのは今からちょうど500年まえの1517年。今年はルターに学び直す年にしたいとおもっております。